「主のろうそく」 使徒言行録 2:1〜13

石井和典牧師

イエス様がここにおられるようです。神様がここにおられるようです。だから信じる人達の集まりに行きます。聖書を学んでいる人たちの周りには明らかに神様の業が起こっています。だから、私も聖書を読んでみたい。そして、人が集まってくる。恐れをもって。

 これが最初の教会でありました。

 神様がおられるという恐れをもっていました。だから人が集まってきたのです。

 イエス様は重い犯罪人として死刑に処されました。その死刑に処された人がリーダーであった人々の集まりに、誰があつまるでしょうか。あつまりません。

 そこに神の力がなければ!

 あつまったということは、そこに神の力を感じて、危険をおかしてでも、そこに行かなければならないと思ったのです。救われるために。人生が全く変化するために。命がなかった人生に命が溢れかえって、命から命への歩みを始めるために。

 そのためには、神の霊が必要です。聖霊のみが、それを可能とする。見えない形で、また見える形で、神がおられるということですね。

 神がおられない状態、聖霊を失った状態となるとどうなるかというと。マタイ福音書9:36。

 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

 食べ物にありつけず、外敵に恐れおののいてなんにも出来ない状態。羊は一日たりとも、羊飼いなしに生きることはできません。それが人間だと聖書は教えています。弱さを隠すために、いろいろ主人を探して、主人に見立てますが、まことの主人である神、イエス、聖霊を迎え入れない限り、弱り果て、打ちひしがれるしかないのです。その主人を失った羊の状態。エネルギーを得ることができない。食べ物を得ることができない、飲み物を得ることができない。そして、右往左往しているものの姿を見て深く憐れまれました。

 聖霊降臨が起こるまでは、ほとんどの人がこのような状態でした。それまで、聖霊が注がれた人というのはいましたが、特別な人でした。人間の罪と悪がはびこると、聖霊は去って行かれました。罪と悪によって神がおられるということは失われる。だから、その状態を清めて神がおられる状態にする。それが主イエスのご使命であられたわけです。

 聖霊が去ってしまっている状態だから、ほとんどの人が「弱く、打ちひしがれた」状態にとどまらざるを得ませんでした。学びはしていましたが、実際に神様の霊がとどまり、上から天の力をいただいて天のエネルギーに満ちている人はほとんどいませんでした。

 律法学者や、ファリサイ派、熱心な人々は非常に多くいましたが、しかし、彼らは聖書の勉強はしていましたが、神の力によって生きているわけではありませんでした。聖霊が去ってしまっていたからです。

 聖霊がおられるということは、どういうことなのかというと、簡単に一言で言えば「イエス様がおられる」ということです。イエスさまがおられて、イエスさまがなされたことが起こるのです。それがわかりやすくマタイ福音書9:35にまとめられています。

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病や患いをいやされた。

 主人がおられて、御国の福音、神の国の支配がやってきた、王として神がキリストがおられる。ついに主人を見出した。主人である主がおられるので、病が重篤なものからそうでないものまで、癒やされた。すべてキリストの主権のもと、神の支配のもと、これらがなった。神がおられるから。

 羊が主人を見出し、食べるものを得ることができ、エネルギーに満ちて、主人に従って新しい道を歩み始めるという驚くべき変化がその人のもとにもたらされるので、その教えを伝える主イエスの足は、そこら中の町や村を残らず回られました。

 聖書のみ言葉を理解できる人たちが集まっている場所を逃しませんでした。そして、神が王となってご支配くださることを伝え、赦されて、導かれて、病がいやされることをもって、神の支配が本物であることを証しされました。

 聖霊が注がれた後の使徒たちは、イエス様と全く同じことをしました!

 なぜなら、彼らこそがキリストが天に昇られたのちの、この世でのキリストの体だったからです。聖霊にみたされるとしるしが起きました。足が不自由な人のために使徒が祈ると歩き出しました。自分の献金を人に自慢しようとしたアナニヤとサフィラが死にました。これも恐ろしいことですが、神が行われた奇跡です。悪霊が追い出されて、正気を取り戻し、神の業のために邁進するものが起こされました。これらの奇跡は一度のみならず、信じるものたちが向かう先々で起こりました。

 一体これから何が起こるのだろうかと、驚きながら、期待しつつ、恐れながら持ち望む歩みとなりました。牢屋に閉じ込められてもその目から炎が消えませんでした。というのも、地震が起こされて、牢屋の戸が神様の力で開けられたりするからです。聖霊の炎が注がれた弟子たちは、目の内側から炎が消えないのです。あきらめを知らないと行ったらよろしいでしょうか。

 神の霊の力がどうしても必要です。でなければ、人々はてんでばらばら好きなようにふるまうからです。使徒たちは、少し前までは、だれが一番偉いか言い争っていました。あの人ではなくわたし、わたしのほうが用いられる。そんなくだらない思いにとらわれていたのです。神の業が見えていないからです。聖霊のご臨在がわからないからです。聖霊がわからず、主がおられることがわからない人は多かれ少なかれ、争いの主体となってしまいます。現代の教会でも争いが起こるところというのは、このような主のご臨在を失っている共同体においてです。

 王は主イエス以外おられませんし、その方に従う歩みですから、そのほかの者たちが偉いか、偉くないかなどゴミのような問題なのです。

 聖霊のご支配を求めなかった弟子たちは、弱かった。イエス様が捕らえられてしまうとき、それを見て恐れに震え、恐れに支配され、散り散りになって逃げました。飼い主のいない羊です。主人をおそれていないからです。

 しかし、聖霊の支配をもとめると、どうでしょうか、人々は一つになって祈るようになっていきました。主(あるじ)がおられるという感覚になるとみんなひざまずくのです。

 するとそこに!激しい風が吹いてきて、家中に風の音が響きました。肉の目で見える状況ですね。炎の舌のようなものが分かれ分かれに一人ひとりの上にとどまったと記されています。炎が人の上にとどまるというのはイメージはろうそくです。主の火をともすろうそくとなったのです。神の言葉と心を燃やしているロウソク!なんという嬉しいことか。もう私はわたしの人生を歩むのではない。

 神の炎をともすロウソクとして、神の業のために生きるものとなった。そういうことを思える内容がペンテコステで起こったことですね。

 それから、寂しい思いをして、外国で暮らさざるを得なくて、祭りのたびに帰ってきた散らされていたユダヤの民に向かって、あらゆる国の言葉で弟子たちが語りだしました。国も環境も超えて、ボーダーレスに境界線を飛び越えて、言葉も飛び越えて、人々が福音を理解できるように、弟子たちが語りだしたのです。

 乗り越えて、乗り越えて、乗り越えてです。それでも、伝えることがあるのです。人生のすべてが変えられてしまったからです。

 上から無尽蔵の命の源、主の霊が注がれてきて、世界に流れ出す。すべての人に。

 十字架で罪赦されて、きれいに心の内側が掃除されて、清められて、祈りの内で主の霊をうけ、この世でキリストの体として生きてくということがどういうことか。

 全世界に出ていって、言葉も飛び越えてしまって、人々の寂しさに触れて、いやし、慰め、神が主としておられるということを告げ、人々が生き返って、その人達が今度はまた世界に出ていってしまう。

 神がそこにおられないと起こらないことが起こるのです。

 イエス様が、そこらじゅうを回って御国の福音を伝えたように。

 飼い主を見つけた羊たちが、元気いっぱい、外に出ていく日を夢見たいと思います。アーメン。