「一つにされる」 使徒言行録 2:43〜47

石井和典牧師

 群衆は自分が罪人ではなくて、イエスさまが罪人だと思っていました。

 これが罪です。逆なんです。逆さになってしまっているのです。

 イエス様が自分を神と自称したから、という理由でイエス様を罪人にしましたが。

 イエス様が神様と一つであられること。それが真実でありました。

 真実であることを真実としなかった。A=Aなのに、A=Bと平気で主張する。これが人間です。

 世が罪に満ちているので、当時の世の中心であったユダヤ教の指導者たちはイエスさまに反発したわけです。宗教指導者であるファリサイ派や律法学者に追い詰められて、最高法院に渡され、ローマに渡され、イエス様が十字架につけられてしまいました。

 それは人間が神を処刑してしまったということを意味しました。

 2000年前の、イスラエルで起こった出来事であります。しかし、神は私達の現実の只中におられます。常に私達のことをご覧下さり、大事にしてくださいました。その神の視線を無視してきた、これが私達の現実ではないでしょうか。

 自分の人生から神様を締め出してきたことになります。

 クリスチャンは不思議な事に、神に申し訳ないことをしてきてしまった。あの圧倒的な恵みで満たしてくださったお方に。私は罪人だ、というところで一致する民です。

 真正面からペトロは神を十字架にかけた罪を指摘しました。それこそがネックであったからです。中心問題だったからです。

 ただしいものを見ていると思っているけれども、実はその認識が真逆であることを指摘しました。

 しかし、不思議なことに彼らはこのペトロの指摘を受け入れていったのでした。

 聖霊の御業というのはすばらしいです。

 心が柔らかくされて、柔らかくされた耳で開き、神の言葉がその隅々にまで入っていく。神はこのような聖霊によって整えられた人たちを通して不思議な業をされていくのがわかります。

 イエス様は何度も同じことをお語りくださっていました。御自分が十字架にかけられて復活なさることを。それらを弟子たちは三度は聞いたはずです。ルカ福音書には三度記されています。しかし、彼らはそれを受け止めることはできませんでした。

 というのも、目に見える次元にとらわれてしまっていたからです。キリストが十字架にかけられるという、おぞましい光景が繰り広げられ、イエス様の言葉はどこかに飛んでしまっていたのでした。しかし、復活したイエスさまに実際に出会い、確認し、共にその事実の前に静かに集まって祈っていると、彼らの上に聖霊が下りました。

 聖霊は、寂しい思いをしていた人たちに特に強くお働きになられました。ディアスポラのユダヤ人たちに語りかけられました。弟子たちの口を通して。当時散らされていったユダヤ人が沢山いました。各国で獲得した世界中の言語で、聖霊降臨の日に奇跡が起こり、共に集まって祈っていた人々の口に各国の言語が与えられました。

 それを通して、散らされて寂しい思いをしていたユダヤ人たちは悟ったのです。わたしのことを決して主はお忘れになられていないのだと。人々は忘れようとも、中心の人たちはからは疎んじられても、神だけはお忘れにならないお方だと。だからこそ、その神の眼差しを無視してきた罪は重いのです。

 しかし、聖霊が降った後の使徒たちの姿は落ち着き払ったものでした。使徒たちのことを嘲るものたちが沢山いましたが、そういう心ない言葉ももろともせずに、神様から示された言葉を、恐れることなく語り出しました。

 はじめに会衆に向かって語りだしたのはペトロでした。

 神様がなさろうとしている出来事の前に、喜びと恐れと、驚きと。主の御前にひざまずくようにして語りだすペトロの姿に皆が心打たていきました。

 この群衆と使徒であるペトロが同じ場所にいれるということ自体が奇跡です。キリストを十字架にかけて、神の独り子を間接的に、殺すことに加担した人々です。群衆は。

 だから、神の前に立つ瀬などどこにもないはずなのです。しかし、ペトロはそのキリストを間接的に十字架につけた。十字架につけろと叫んだ会衆に向かって語りだします。

 彼らにも赦しが差し出されていました。それはあの十字架の場面からすでに始まっていました。キリストは「父よ彼らをお赦しください」と叫んでおられました。

 キリストご自身が彼らを向かえいれ、赦し、教会としようとしてる。 

 だから、ペトロは説教の最中、「兄弟たち」と常に呼びかけているのです。本日朗読されたすこしまえにそのペトロの説教が記されていますが、使徒言行録2:29を見てください。「兄弟たち」と確かに記されているのが見えると思います。

 キリストを間接的にであれ、十字架にかけて殺した人たちを「兄弟たち」と呼び掛けていること、これ自体が奇跡です。

 人間の罪も欠けも、失敗も全て乗り越えて神の業が始まろうとしています。

 人の感覚ではここで説教することは不可能です。自分の愛する師を十字架にかけた民です。人殺しに話しかける気に普通なりますか。ならないです。

 しかし、ペトロはなしかけました。神の業の中、ペトロは誰よりも強く確信していたからです。ペトロは他の誰よりも深く赦されていると確信していたからです。ペトロは深くキリストの心を傷つけました。しかし、赦されたのです。

 他の誰よりも自分の罪が深い。だから、どんな人にでも語りだす。これが使徒でした。

 神は、すべての人をその信仰によって、どんな過去があったとしても、呼び掛け、呼び寄せ、愛し、迎え入れ、キリストの命ゆえに赦し迎え入れようとされている。ペトロの態度、言葉、姿。その謙遜さ。聞いている群衆は言葉だけじゃなく、そのペトロの話す姿全体から影響を受けたはずです。使徒言行録2:37。

 人々はこれを聞いて大いに心打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

 しかし、このすぐ前のペトロの話は非常に厳しい話でした。36節。

 あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。

 あなたがたがキリストを十字架にかけて殺したんだとはっきりと言っているのです。

 しかし、不思議です。群衆は自分が罪人だと言われて、「こころを打たれた」のです。そして、使徒たちにこのように言いました。37節。

 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」

 罪人であることを認めなさい。「あなたがキリストを十字架にかけたのです」と言われてそれを受け止めることができました。

 極端な語りをしますが、「問題は、自分の力を捨てて、頭をたれて、主の前に『どうしたらよいでしょうか』と聞きに行ったら、ほとんどすべては解決していると言える」と思います。頭をたれて、主に聞くということこそが極めて難しくできない。

 自分はこう思う、絶対こうだ、と思っているから祈りに行かないし、なにも変わらないわけです。しかし、「どうしたらよいでしょうか」と言い始めたら、主に聞いたり、主のしもべである誰かに聞いたりしはじめたらもう、出口は近いのです。ペトロは言いました。使徒言行録2:38。

 悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。

 悔い改めなさい。メタノイア。これはもとは「考えを変える」という意味です。考えを変えて神のところに立ち返りなさいということです。ということは、神のところから今まで離れていたということを認めるということです。自分は神の側についていると思っていたかもしれない。しかし、多くの場合そうではなくて、神のただしさではなく、自分がただしいことをしているに過ぎません。

 自分が間違えるはずがない。そのように思っていたから人はキリストを十字架にかけてしまったのです。

 だから、自分が神の側についていなかったことを認めて、神の側に立ち返る、そのことこそが重要であり。実は問題のすべてなのです。あらゆる問題にこの悔い改めが関連しています。まだまだ悔い改めていないのです。

 みんながメタノイアして、考えを変えて、洗礼を受けて、神に立ち返って、聖霊の賜物をうけるとどうなるかというと、周りの人達がその集団を恐れ始めるのです。ここまで行くまで悔い改めをやめてはいけません。好意をもちつつも恐れるのです。

 それはなぜかというと、使徒言行録2:43。

 すべての人に恐れが生じた。使徒たちのよって多くの不思議なわざとしるしが行われていたのである。

 奇跡が起こりました。癒しが起こりましたし、悪霊が追い出されて、人が生き返ったりしました。まむしに噛まれてもパウロという使徒は害を受けませんでした。

 非常に謙遜に、神に対する愛が溢れて、そこで不思議なことに神の業が起こっていた。奇跡は起こるべくして起こるのです。私達が謙遜に神の前にひざまずいて、悔い改めて方向を変えればです。そうでなければ神の業は起きません。46節にはこのように記されています。

 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。

 奇跡がおこっていただけではありません。神への愛が溢れて、神を讃え、神こそをもっとも高く高める思いに満たされていました。毎日神殿に参っていました。

 みんなの顔が上に、神に。

 聖霊を受けて、みんなの思いが神に、メタノイアして、悔い改めて。考えを変えて。自分を俯瞰する。自分を神の視点から見る。

 真実に悔い改めた人たちの顔つきや態度を見て、人々は心打たれたのです。自分も罪人だと思わされました。私達を見て、周りの人が自分も罪人であったと認める。

 ペトロは自分の思いに溺れて、お前たちは悪人だと叫んだのではありません。神の視点から、キリストを十字架につけた罪が如何に深いかを真っ直ぐに語ったのです。起点は神です。神からこの言葉は来ていると気づいた民は、神の前に態度を変えたわけです。それが悔い改め。その民に聖霊が満たされ、神の業が起こります。アーメン。