「聖霊による奇跡」 使徒言行録3:1〜10

石井和典牧師

 人々が差別し、近寄らないようにしていた人に、使徒たちは近づいていきます。イエス様が地上でなされたように。

  キリストの弟子であるペトロとヨハネの姿です。

  弟子以外の人々も施しをするときには、この男に近づきました。コインを投げ入れる時にだけ近づきますが、彼の体にも、人生に触れるものはいませんでした。

  そういった生活をおそらく13歳ぐらいのときから、「美しい門」という神殿の入口付近に連れてこられて、26〜27年ぐらいをこのような物乞いとして生きてきたのです。これだけ長きに渡って同じ行動をし続けたのですから、ここから逃れる術はもうないと言わざるを得なかったのではないでしょうか。

  この人の人生に誰も疑問を呈することもなかった。こう生きるしか無い。それを自分でも認めて、周りの人もそのように生きてきた。

  しかし、そこに入り込んでいったのが、ペトロとヨハネでした。26年もの長い岩のように変わらない人生に切り込むことができる。主イエスの力によって。そう信じていた二人でした。

  彼らはただ、主イエスの御名の力の権威だけを信じていました。

  ペトロとヨハネの力によっては足の悪いこの人の足を癒すことなどできません。

  弟子たちのところに復活の主イエスが現れてくださり、状況がすべて変化してしまいました。復活の主を信じた弟子たちによって不思議な業が行われるようになっていました。

  復活の主が現れるまえまでは、どうにもならない痛みと苦しみにさいなまれるだけでした。縮こまって部屋に閉じこもっていました。

  しかし、主イエスはこの弟子たちに復活をお見せくださいました。

  ボロボロに皮膚は裂け、釘で打たれ、血を流し、槍でつかれて、内蔵に到達する傷を受け、もう誰がみても助かることはない状態にまで主イエスは追い込まれました。死しかそこにはない絶望の時でした。

  死を身にまとい、呪いをまとったはずのイエスが、目の前に、傷もなにも癒やされて現れなさったのです。それが復活という出来事であり。私達教会の原体験。ベースです。

  痛みや、苦しみや、赦せないという思いや、なんでこんなことになるんだという怒りや、不平不満やあらゆる負の感情、思いが弟子たちの中に渦巻いていたに違いありませんが、それらがスッと軽くなくなってしまう瞬間を彼らは、主イエスの復活のお姿を見て経験したのです。

  主イエスは、復活した。まさか、そんなことありえない。

  しかし、それが神の力。ボロボロに壊れ、崩され、だめになったもの。神は回復なさる。

  それを目の当たりにしたから、人生が崩れてしまっているかのように見えるその人が回復することを信じることができたのです。

  我々が本当に信じてるかどうか分かるのは、人生がボロボロになっている人を目の前にして、その人にどのように関わるのかということを通してです。

  ペトロは特に神の霊が降り始めたら共同体が命をふきかえすということを目にしていました。ペンテコステの時、死んだように弱っていた共同体に命の息が吹き込まれました。神が自分を忘れてはおられないということを一人ひとりが、確信して、預言で言われていたことが自分に起こるということを確信したのでした。使徒言行録2:17。

  「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

  明確に終わりの時がはじまった。そして、私達はその神の終わりを来たらしめる働きの中におり、神の霊が注がれている。だから、復活を目の当たりにできたのだし、聖霊が炎の舌として降るのを見ることがゆるされたのであるし。血と火と立ち込める煙を目の当たりに出来た。キリストの血、聖霊の炎、神の臨在。これを味わったのだと意識しているのです。時代が変化してしまったのです。終わりの始まりがはじまった。

  終わりの時だからこそ、人々の中に恐れずに入り、神の栄光を現し証しを建てるために、奇跡が起こる。

  神殿の東側の入り口、正面のように見える門があり、そこに一人の男が連れてこられていました。物乞いをするためです。その人に向かってペトロとヨハネは言いました。使徒言行録3:4。

  ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。

  ペトロとヨハネは彼をじっと見ました。これまでここまで見ず知らずの人が施しをするという事以外でこの男をまじまじとみることはなかったのです。しかし、彼らはじっとこの人を見ました。

  ペンテコステの日に世界中の言語で弟子たちが祈りをしはじめたということは恐ろしく大きな意味があります。人々が忘れ、世界が忘れている一人のところに、神が御手を伸ばされるということを意味しています。

  だから、通りすがりのように見えるけれども、そうではない。神が出会わせてくださった、神の御手が私を通して、示された。私が神の御手となっている。神の心が心の内に満ちているから、この男をペトロとヨハネは「じっと見た」のです。

  施しもしないのに、「じっと見て」興味をもって、関わってくれた人などこれまでいなかったのです。

  でも、この足の不自由な人は、興味をもって自分と関わってくれる温かい人としてペトロとヨハネ見たわけではありませんでした。「何かもらえる」という、「施しの生活」が染み付いた心しか持つことができませんでした。神様が関わってくださる以外、彼の人生が変化していくなどあり得ませんでした。心も変わりません。

  しかし、彼の前に神から遣わされてこの場所にいる、使徒が現れたのです。彼は変わります。

  神から遣わされた人が現れ、信じてくれれば変わり得ます。

  使徒はこの男性に言いました。「わたしたちを見なさい。」と。

  多くの場合どうでしょうか。わたしを見てください、ではなくて、「わたしを見ないでください」と言いたくるものではないでしょうか。こんな汚れた私ではなくて、こんな不信仰なわたしではなくて、どうぞ神様を見てください。イエス様をみてくださいと。しかし、ペトロとヨハネが言った言葉というのは特徴的です。「わたしたちを見なさい」です。

  なぜなのか、それはペトロとヨハネ自身が何か素晴らしい力を持っているというのではありません。彼らには唯一つ重要な権威が委ねられていたからです。それは「主イエスの御名を行使する」という権威です。

  イエス様はこのようにおっしゃられました。ヨハネによる福音書14:12。

  はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何か願うならば、わたしがかなえてあげよう。

  イエス様をメシア、救い主、神の子、父と一体であられる。神であられると信じて祈るものには力が伴うのです。信じるものには必ず力が伴います。そのようにイエス様はお約束くださっています。このことを信じるがゆえに、「わたしを見ないでください」ではなくて、「わたしを見なさい」なのです。そして、ペトロは言います。使徒言行録3:6。

  ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

  金や銀という目に見える力はなにも持っていないが、目に見えない力がある。それはイエスの御名による権威の行使、祈りである、ということですね。

  そして、右手を取って彼を立ち上がらせます。

  25年間も歩けなかった人を立ち上がらせようとするということ自体、普通の人間が考えてできることではないと思います。信仰がなければなりません。すなわち、イエスの御名の力、権威を信じ抜く信仰です。

  使徒の姿を見ていれば、心で信じていることは、実は外に出てくるということもわかります。この人を立たせようなどと、実際に本気で癒やされると信じていなければできる行動ではありません。信仰のままに行動すると、信仰のままになる。それが、主イエスが私達に教えてくださったことです。マルコによる福音書11:22以下にこのようなイエスさまのお言葉があります。

  神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりいなると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

  神の思いであるならば、神は必ずこの人を立てるようにしてくださる。

  そう、信じて少しも疑わなかったのですね。だから、そのとおり手を取って立たせたわけです。すると、そのとおりになりました。

  キリストの血潮によって清められて、その内側に神の霊がやどり、神の心を理解し、そのとおり祈ることができ、私の思いではなく、神のみ心を求めるからそれが実現していく。

  ここには神の行動しかありません。ペトロとヨハネの行動がありますが、それは神の力によって動かされています。その結果、この男はこのペトロとヨハネに栄光を帰して、彼らにひれ伏すのではなくて、ただ神を讃美する讃美へと導かれていきました。ペトロとヨハネがただ神を見ていたから、その恩恵にあずかった一人の人も、もう直感的にペトロとヨハネを上げるのではなくて、神を讃美しているのです。神につながっています。

  神の霊の力によって、すべてが神に繋がっていってるのがわかるでしょうか。聖霊に導かれた教会の姿です。

  我々は、いまなににつながり、何の思いを実現しようとしているのか、振り返る必要があります。こうやってただ神の思いにつながっていくのであれば、驚くべき奇跡がおこる。しかし、自分の思いにつながっているのならば、それは起こりません。

  聖霊に導かれ、その思いをたどっていったら神につながっている。そのような共同体を造りたいと思います。アーメン。