「信じるものには何でもできる」マルコによる福音書 9:14〜29 

石井和典牧師

 学者たちと議論していた弟子たち。しかし、議論によって物事は動きませんでした。問題はあまりにも大きかったからです。手に負えない問題でした。ある人の息子が霊に取り憑かれて、話すことができなくなり、所かまわず地面に引き倒し、泡を吐いて、歯ぎしりして体をこわばらせます。誰にもどうにもできないひどい状況でした。

 イエス様は、このことに全く対処することができない弟子たちを見て、苛立ちを覚えているご様子が書かれています。マルコによる福音書9:19。

 「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 イエス様は弟子たちの何に苛立っておられたのでしょうか。それは主イエスの言葉の中に示されています。「なんと信仰のない時代なのか」という言葉です。信仰が無いことをとがめておられるのです。弟子たちは信仰があるはずでした。本日の少しまえのところマルコによる福音書8:29で使徒の筆頭ペトロがこのように信仰告白をしています。

 「あなたは、メシアです。」

 ペトロを筆頭とする弟子たちには信仰があるはずでした。しかし、その信仰は不十分なものでした。だからイエス様が咎めておられるのです。

 メシアというのは救い主のこと。油注がれたもの。ダビデの子孫から生まれ、イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在。

 決定的に重要な存在である。しかも、主イエスはご自身が神と等しいお方であることを弟子たちにその言動を通して教え続けてくださっていました。と、信じているはずでした。

 信じているのならば、すべては神とキリストにかかっているとわかっていたはずです。

 この御方にお働きいただくことがすべてであると。

 しかし、主イエスに咎められました。 

 弟子たちは主イエスの権威を信じるということではなくて、おそらく自分たちの信心によってか、ひいては主イエスのマネをすることによってか、自分たちがなにかできるとでも思っていたことがわかります。

 そこには、主イエスに対する正しい信仰がなかったのです。

 主イエスが病に対して力を発揮することがおできになる方である。主イエスこそが、神の御子である。言葉ではそう告白していたかもしれません。しかし、心の内側では実際に信じていなかったということです。だから、何も起こらなかったのです。そこに信仰さえあれば、何かが起こされる。そのことが主イエスの言葉からわかってきます。マルコによる福音書9:23。

 「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

 この父親はもしおできになるならば、ということを主イエスに言いました。そこには、できない可能性もありうるというニュアンスが含まれています。しかし、主イエスにはそれがおできになられました。神の子、神と等しいお方ですから。

 だから、信じるということはどういうことかというと、一か八か、もしも可能であれば、とかそういうことではなくて、メシア、キリスト、神の独り子、その御方には何でもおできになると信頼し、信じ切って、信じぬいて行動するということです。

 この父親は自分には信仰がなかったということを素直に認めて、信じると告白しています。

 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 と、信仰の無い自分を認めつつ、信じる決断をしたのです。

 手に負えない現実の只中で、信じるのか、信じないのか。実は信仰に歩む者たち皆が、そのような問いに直面しています。目を開けば開くほど、抱えてしまっている現実といいましょうか、課題が山積みでどこから手をつけていいのかわからない問題がそこかしこにあります。家族の問題、地域共同体の問題、社会の問題、世界の問題。主イエスは神の独り子であられますので、そのすべての問題の只中に切り込んでいくことができるお方です。

 息子が原因不明の病、また霊の仕業によってどうにもならない、小さな家族の中で起こっている問題に入っていかれるのが主イエスであられます。よく読みますと、幼いころからこのようにひきつけを起こして暴れまわるような生活をしていたようですから、この一人の子供の誕生によって、苦労を沢山背負ってきたことがうかがえます。どうやっても、だれに頼んでみても解決のいとぐちが見えてこない、そういう現実だったのです。

 しかし、彼にとっての幸いがやってきました。時が来ました。主イエスの前に行くという時です。ここから全てが動き始めるのです。信じる歩みが始められていきます。

 実際、主イエスの言葉一つで子供は癒やされました。主イエスのお言葉に病も困難も従うのです。主はご命令になられました。マルコによる福音書9:25。

 「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどくひきつけさせて出て行った。

 お言葉一つですべてを従わせることがおできになる権威を主イエスはお持ちです。それは世界の創造のはじめから、天の父なる神様が有しておられた権威です。神は「光あれ」というたった一言から光を創造されて、世界に秩序ができました。

 ここにいるものたちにとっての光とは、自分たちに何ができるかということを捨て去って、主イエスのところにとにかく行って救いを求めるということでした。いうなれば、彼らは不信仰ではありましたが、光に到達することができています。主イエスに到達することができています。

 議論してなにかを生み出そうとしていたときは、何もできませんでした。おそらく実りある議論など、この人生の難問を前にしてすることなどできなかったでしょう。人間の議論は、どうしようもない、何の解決策もない、で終わりです。

 しかし、議論をして何かを生み出そうとすることをやめて、光のところにいって、光そのものであるキリストが行動してくださって、キリストが叱りつけてくださるところ、そこに行きさえしたら、神様の業が行われてしまったのです。

 不思議です。

 キリストは、自分の考えを捨てて、キリストのところにきて、ただ従ってみるそのものに奇跡を見させてくださるお方です。

 完璧な信仰でなかったとしても、主のところに来、対話させ怠らなければ、主は導いてくださるのがわかります。

 「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という謙遜さまで、主イエスご自身が導いてくださっているのがわかります。

 「『できれば』と言うか。信じるものには何でもできる」

 この言葉一つで、全能の父なる神を実は自分は信じてはいなかった自分自身にこの父親は気付かされているわけです。全能の神を信じるということは、どういうことか。

 それは、この子供の病にもしも神が一声かけられれば、その病が癒やされ、もしも主なる神が一声かけてくだされば、山が動き、川がせき止められ、天変地異さえも起こり、世界も動く。世界を創造された主のお力を信じるということです。

 そのような一声ですべてを動かすことがおできになる方の力と権威を信じることであること。これを一声かけて息子を癒やすといことを通して主は見せて教えてくださって、もうこの父が疑いを抱く必要のないところまで導いてくださっているのです。

 もしも、信仰のない自分を認めて、それでもただ主のところに来るのならば、本当に信じるということはどういうことか、主イエスは実際の奇跡を通してお見せくださるのです。

 心を開いて、目を開いて、そうだ私達には主イエスがおられれる。と、人生のすべての領域において、主のもとに行くといことがはじまれば、主はご介入くださることでしょう。聖書に記されている通り。アーメン。