「徹夜の祈り」 ルカによる福音書6:12―16 

石井和典牧師

 イエス様と出会って、沢山の人々が生き返りました。未来を見出すことができないような生活をしていた人が、命に躍動する瞬間をいただいきました。イエス様のご存在によって元気を取り戻しました。イエス様が人に与えようとされておられることは、復活です。一人ひとりが復活の狼煙をあげるように願い、実行してくださったのです。

 復活するということはどういうことかというと、「羊飼いのいない羊」のようなありさまから回復されて、「羊飼いに従い、羊飼いに守られる羊」となるということです。真の羊飼いである神様を見出すということです。

 人間が羊に例えられます。羊はあまり目がよくありません。羊飼いがいないと生きていけません。食べものにありつくことができませんし、危険を回避することができません。それだけ小さな存在に過ぎないのだということに気づくことがまず大切です。

 人間も羊と同じように「一寸先は闇」、何も見えていません。

 人間は羊であるとイエス様は教えてくださいます。このこと自体、私は衝撃的な内容ですね。人生を一から考え直さないといけなくなります。羊飼いについていけば、つねに命の水と牧草(食べ物、エネルギー)を得ることができる。さらに、羊を食い物にする狼や野獣から守られます。

 だから、羊飼いのもとに羊を回復するために、主イエスは来られたのだということです。水を飲み、食べ物を食べ、危険を回避することができる平安を与えてくださるのです。「一寸先は闇」ですから、実際には人間には何にも見えていないのです。平穏な時が実は危機であり、危険な日々が実は平穏をいただく時である。神がおられれば、そのようなことも起こり得るのですが、何も見えておらず環境に振り回されているのが我々でしょう。

 本日はルカによる福音書6:12―16を読んでいます。12使徒がイエス様によって集められて遣わせる場面です。ルカではなく、マタイによる福音書には、12使徒がイエスさまによって呼び集められて派遣されるそのすぐ前に、このように記されています。ルカには記されていない弟子が集められて派遣される理由が記されているのです。マタイによる福音書9:35〜38。

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 イエス様の憐れみの心から、残らず町や村を回りに回ってくださいました。まずそのお姿を心に焼き付けていただきたい。主は、憐れまれるべき羊たちを探し回ってくださっています。帰ってきたいと願っているものを一人も取りこぼさずに連れて帰るためです。

 弟子たちは使徒として送り出されようしていました。使徒という言葉は「遣わされたもの」という意味の言葉です。イエスさまから、天の父なる神さまから、イエス様の代理人として遣わせれて民のところに送りだれた人。すべては、イエス様の憐れみの心によってです。憐れみというのは新約聖書の書かれたギリシャ語ではスプラングニゾマイ。ヘブライ語ではラハミーム。スプラングニゾマイは、「内臓がゆさぶられる」という意味があり、ラハミームは女性の子宮を意味するラハムの複数形です。

 自分の内側で育み、自分の命を注ぎだしていく対象。そのものを思うときの感情ですね。それが憐れみ。憐れみという言葉は神様の思いを理解するうえで非常に重要です。

 憐れみについて具体的に見ていきます。一例を述べますと、墓場で暴れまわって誰も手をつけられない人その人に駆け寄る愛です。2000年前のパレスチナでは悪霊にとりつかれて、もう誰も手がつけられない人を墓場に閉じ込めていたようです。現代でもフィリピンで墓場に住み着いている子どもたちがいるということを聞いたことがあります。

 とにかく暴れまわっているので、足かせ手かせをはめられていました。

 みんながあきらめていた人。捨てられた人。そういう人です。しかし主イエスはあえてそこを選んで行かれるのです。それが神の心だからです。子供が傷んでいたら放置することができないからです。

 癒やしを与えられました。憐れみを注がれた人は、正気を取り戻しました。周りの人々はその光景をみていて恐ろしくなったといいます。だれも鎮めることができない大波が静まり凪になったのですから。イエス様はその人の内に宿っていた悪霊に一声かけて、お命じになられました。すると悪霊はその人のうちから出て行きました。

 イエス様がなされたことはこのような驚くべき業です。力ある御方なのです。神であられるのです。だから、「一声かけただけで」この世のものは皆従うしかないのです。悪霊でさえ従います。だから、この御方のところに人々を連れてこなければならないのです。この方と対話をさえはじめれば物事は変化するからです。

 誰も癒せないけれども、イエスさまだけが癒せる。そういうものがあるのです。

 

 イエスさまにしか与えることができない、神の憐れみを多くの人々に与えていくために、使徒が選ばれて遣わされていきます。イエス様は収穫が多いが、働き手が少ないとおっしゃられました。ということは、それだけ、主の力が伝えられておびただしいほどに実りが与えられるほどに、主は多くの人々に憐れみが注がれるようにと願っておられるということです。誰一人滅びることなく、救われるように願っておられます。ヨハネ福音書3:16にはこのような言葉があります。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 一声かけてくだされば物事が変化するという、神の独り子のちからを信じる。神の国の支配があることを信じる。信仰が与えられたものに、神のちからが及び、そのものは滅びることはありません。

 神様を見失っていた人が、飼い主を見出して、復活して、命が無尽蔵に神様から注がれてくるように、使徒が選ばれました。

 この使徒の働きというのは極めて重大な働きです。なぜなら、使徒はイエスさまと同じ働きをするからです。イエス様はそのために徹夜の祈りをおささげくださいました。

 彼らが引き受けた使徒という働きは、非常に厳しいものでありました。

 パトモス島に幽閉されたヨハネ、そして裏切ったユダ以外は、皆迫害され、暴力を受け処刑され、殺されています。石打の刑、十字架刑、首を落とされ、槍で刺し通され、逆さ十字架にかけられたものもいます。

 このような事実は、考えれば考えるほどに、ある事実にわたしたちを向かわせます。その事実とは、復活はあったのだということです。

 処刑された彼らは主イエスにおいて起こったことを「一歩もゆずることができなかった」のです。「一歩もゆずらなかったから」処刑されてしまったのです。

 自らも復活の命にあずかっているのだという信仰があるがゆえに、殉教の死を雄々しく遂げることができました。

 もしも、弟子たちの共同幻想、嘘であったのならば、捨てることができたはず。処刑されなかったはずです。

 しかし、彼らは処刑されても、イエスが主であり、復活なさったこと、今も生きておられること。聖霊によって信徒一人ひとりに内在しておられることの中に立ち続け。教え続け、現代の我々まで届く声として、その現行が残っています。

 彼らの思いの上にこの教会があります。彼らの命がささげられて、教会が建ちました。

 主イエスは、未来の教会が立てあげられるために、使徒を選ばれたのであり、それは実際にはわたしたちのためであったということになります。

 主イエスの命の犠牲の上に、使徒たちの命の犠牲の上に、代々の聖徒たちの犠牲の上にいまわたしたちが立っています。

 彼らは死にましたが、彼らが差し出しているのは、死ではなくて、命です。

 永遠の命です。愛する羊たちが豊かに命を得るために、すべてをお捨てになられた主の思いの上にわたしたちは立っています。主イエスはこのようにおっしゃられました。ヨハネ福音書10:11。

 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

 この言葉どおり、羊飼いであるイエス様は、命を捨ててわたしたちを守ってくださいました。命の犠牲によって、目が開かれて信仰に至り、命を得ることができたのです。私も、主イエスの十字架、十字架上での言葉がなかったら神を信じることはできなかったでしょう。「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 使徒たちを通して教会がたてあげられる。そのような夢を見ながら、主イエスは使徒たちのために徹夜の祈りをささげたに違いない。徹夜でなければなりませんでした。それは全世界がこの使徒たちの教えの上に救いを受けるからです。世界の明暗はこの使徒たちにかかっていたからです。この使徒が世界を変えます。日本にいるわたしたちまで変えました。

 12人を派遣するにあたり、主イエスは使徒たちに力をお授けになられました。ルカ福音書9:1〜2。

 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、

 イエス様が与えようとされていたことは、イエス様が地上でなされたことでした。そのまま使徒たちが行うことができるようにと、力をお授けになられました。

 だから、使徒的な共同体である教会が、キリストの体と呼ばれるのです。キリストと同じ業を行うからです。

 この世で、キリストがご臨在なさるのは、キリストの共同体においてです。

 わたしたちがここに集められているのは、キリストを体験するためです。

 キリストの弟子たちを通してキリストご自身の業が行われます。

 神の国の福音が言葉ではなくて、力をもって広げられていきます。

 神の国を持っている人の姿を思い出してください。使徒言行録3章にペトロの姿が描かれていました。ペトロには神の国がありました。ゆえに、生まれながら足の不自由な人に「

わたしたちを見なさい」と言うことができました。それは、わたしたちにある神のちから、神の国をみなさいということです。さらに。

 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 と言うと、そのとおり足が不自由であった人が歩き出しました。周りの人は我を忘れるほどに驚きました。

 神の国を内にもっている人の力。それがペトロが見せてくれたものです。キリストを証ししているのです。どうぞ、その力をあじわって、罪の赦し、いやしを体験していただきたいと思います。アーメン。