「祈りの奇跡」 ルカによる福音書 9:10〜17

石井和典牧師

 イエス様は何のために来られたのでしょうか。ルカ福音書4:43。

 「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」

 神の国の福音を告げ知らせるためです。神の国があなたがたのところに来ました、という喜ばしい知らせです。神の国というのは、「神の支配」のことです。国とはギリシャ語で「バシレイア」です。主が王となってご支配くださるところという意味ですね。

 主が王となり、その御方に讃美をささげる。これがわたしたちが創造された目的です。それゆえに、純粋に、神の喜びのためにわたしたちは創造されました。詩篇102:19にこのように記されています。

 後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」

 神の支配が宣べ伝えられ、神のもとに人が帰ることがゆるされていることを具体的な形で証明なさる方法が、病の癒やしや奇跡でした。

 イエスさまは弟子たちだけでベトサイダという町でお休みになろうとされましたが、群衆がついてきました。それは彼らが神の国の支配、すなわち神の癒やしの業や奇跡を見たいと思ったからです。また、実際に自分や自分の家族や友人を癒やしていただこうと思っていたからです。イエス様はその民の必要の一つ一つにお応えくださっていました。ルカ9:11。

 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。

 切実な願いをもって癒やしを求めてくる人々に対して、神の支配が与えられるという喜ばしい知らせを伝えて、そのしるしとして病の癒やしが起こることを主はお見せくださいました。ここに出てくる人たちは誰も拒まれることなく、主の癒やしの業が起こり続けていました。日が傾きかけるころまで、イエス様が人々に触れるその業は続けられていきました。

 食べ物がないので、民を解散させないと大変なことになると思って、12弟子はイエスさまに進言しました。9:12。

 「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里に行って宿をとり、食べ物をみつけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れたところにいるのです。」

 実際の必要が満たされることは無いだろうと予測されましたので、群衆を解散させてくださるように、主イエスに言いました。

 しかし、主イエスはこのようにおっしゃられていました。マタイ福音書6:33。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えてあたえられる。

 神の支配をまず求めなさい。神が義しいと言ってくださることを求めなさい。「これらのもの」は「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」という日常での必要のことをさします。

 だから、神の国をまず第一に求めているのであれば、日用に必要なものは全部そろえられるのということです。何よりもまず、神の支配を求めなさい。

 しかし、弟子たちはそのような発想をまだしていませんから、とにかく解散することを先に考えて、問題が起こらないようにしようとしたわけです。主のお考えのことと全く違うわけです。基本的に人間が考えることと主が考えることは大きくかけはなれていると考えて良いかと思います。人々の空腹を満たすためには、なんとか調達して、もしくは、それぞれがそれぞれでなんとかしないとどうにもならないと思ってしまうのです。

 しかし、主は、まず必要な神の国を求めて来た一人ひとりを実際に養ってくださいます。神の国を第一とした、イエスさまの回りに集まってきた人たちには必要なものが与えられていきます。

 弟子たちは、食べ物は集めてなんとかしなければならないと考えているわけですが、主イエスは既に持っているものを用いて神の国の業を行ってくださいます。

 わたしたちはないものねだりをして、既にあるなにかではなくて、全く別のものが与えられたり、新しいものがやってくれば、物事は解決するだろうと考えてしまいます。金があれば、能力があれば、このような優れた人がいれば、なにかここにはないものを得ることができれば物事は解決するだろうと考えています。

 しかし、実際はそうではありません。

 ここにないなにかを求めれば解決するのではなくて、主イエスを求めることで解決するのです。すなわち「神の国と神の義」を求めるのであれば、必要なものは与えれるのです。しかも、すでに持っている5つのパンと、2匹の魚でことたります。5000人の食事ですよ。神の国を求めるならば、考えられないことが、起こりえないことが起こるということです。

 50人ぐらいの規模のグループに分けることによって、5000人ですから、100グループがそこら中にできたという計算になります。この人達を満たすためには、凄まじい量の食料が必要となります。

 そこで、主イエスは弟子たちたから5つのパンと2匹の魚を受け取り、天を仰いで、賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちにわたして群衆に配らせました。

 信仰に根ざした賛美の祈りがいかに力強いか、わたしたちに主はお見せくださいました。「主を賛美するために民は創造された。」と詩篇に記されている通りです。神を中心として、神の喜びのために自分が存在し、神に向かって叫び声を上げる時に、神がお応えくださるのです。

 神の国の支配があることが、目に見える形として実際になるのです。神を賛美する賛美を第一としますと、そこに神の国がやってきて、主イエスのご支配の力が証しされるのです。

 5つのパンと2匹の魚が5000人を満たすという奇跡は主イエスの言葉どおり起こるべくして起こった奇跡です。イエス様がおっしゃられた通りです。

 天の父はオールマイティなるお方ですから、何もできないことはないのですから。主を第一に求める心があるのであれば、不思議な業が起こります。

 主イエスは、十字架におかかりになられて、このように神の国の支配がわたしたちひとりひとりに与えられるようにと、ご自身の命をおささげになられました。主イエスの血潮の功績に頼るものには、神のところに帰る道が準備されている。主イエスの御名によって赦されて、赦されたものたちには印が伴い、神がおられなかったら絶対におこらないであろうことが行われていく。それは、信じるものたちが、まことの神の国の住人であることが証しされるためです。

 最後に、残ったパン屑の籠の数に注目してください。12です。12は聖書の中で神がご自分の御業をなさるときに用いられる数字です。

 残ったパンくずの数量まで、これは神様の思いの内であるということを指し示す内容です。だから、この箇所で起こった一連の出来事の中に、神の支配がなかったところは少しもなかったということがわかります。神の支配を自ら排除していくような罪の中に陥らない限り、主はご自分の業を常にそこら中に満たしてくださるということです。

 起こるすべての出来事から、わたしたちは主のメッセージを聞く必要があります。ここに聞いてここには聞かないということではありません。自分が考えていなかったところにも神様の導きの御手があるのです。視野に入っていないところからも導きの御手を得ることができるのです。残ったパン屑からも主のメッセージを聞くことができます。すべて主の支配の内。

 まず神の国と神の義とを求めましょう。その優先順位を間違えなければ、そこに主の奇跡が起こります。さらに、賛美をささげ続けましょう。そのために民は創造されました。主がどのようなお方かを思い描き、全能の父なる神の御手だけを思い描き、自分に何ができるかどうかではなくて、父を思い描いて、賛美をささげましょう。その賛美の声が、天の力を解き放ち、そこら中が神の支配の内にあったのだということをあらためて発見する時となるでしょう。アーメン。