「信じたとおりになる」 マルコによる福音書 11:23〜24 

石井和典牧師

 イエス様は真実を全て見抜かれるお方です。心の内を見ておられます。当時のエルサレムの神殿がすでに腐敗してしまっているのを感じ取られました。祈りではなくて、商売がその心の内側の中心になってしまっていました。その光景を見て激怒されました。

 神殿におさめる献金は、ローマの硬貨ではなくて、ユダヤのシェケルをつかなければなりませんでした。ローマの通貨からユダヤの通貨にお金を変えるために、神殿において高い手数料を払わせました。さらに、神殿で捧げられる動物は、祭司が認めた祭司印のものでなければなりませんでした。そこでも利益を吸い取っていたのが、当時の祭司階級でありました。

 神殿での中心的な関心が、神への祈りではなくなってしまっている現実がありました。

 神殿は祈りの家と呼ばれるべきであるというイザヤ書の言葉を主イエスは引用されました。祈りというものがいかに尊く力があるものか、主イエスは教えてくださいます。

 というも、エルサレムに入場されて、その後に神殿に行って、神殿を清められるわけですが、真っ先に祈りが心からささげられているかどうかをご覧になられたのです。

 残念なことに、人々の金銭への欲を神殿で主イエスは見ることになりました。その結果、祈りが形骸化してしまっていることを感じ、祈りについてお話くださったのでした。それが本日の朗読で読み上げられたマルコによる福音書11:23節以下です。

 神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば。そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

 この箇所のすぐ前にあるいちじくの木が実をならせていない姿をみて、イエス様がその木を呪います。神殿に向かわれるまでに、なんという不思議な箇所があるのだろうと誰もが思う箇所なのです。しかし、これには深い意味があります。

 神殿が祈りの実を実らせていないということに対する主イエスの怒りを表す内容でした。

 形はりっぱなものをもっていても、組織や、祭司制度が整っていても、人々がそこに集まっていても、心からの祈りが捧げられているのではなくて、人々は、外形的なことを整えること、商売をすることに心の中心を向けている。

 もはや、本質がわからなくなって、実を実らせることができなくなっている。実を実らせないいちじくの木を呪うというのは、形骸化してしまったユダヤ教組織や神殿に関わる人々を呪われているということでもあります。

 このことを真正面から主は指摘しました。その指摘があまりにも真実をついているものですから、神殿関係者は主イエスに殺意を覚えたのです。

 イエス様は、神殿で売り買いしている人を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されました。それだけ主イエスの神殿に対する思いが強いということがわかります。

 神殿を通して、人々は祈りを学びました。イエス様の時代のもっともっと前に、紀元前10世紀中頃、ソロモンの時代に最初の神殿は完成しました。そのときに、なぜ神殿が作られたのかというその精神がソロモンの祈りによってよくわかります。列王記上8:27以下。

 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。

 神殿は純粋の祈りをささげるところ。祈りの家です。その本来の目的が少しでも汚されてしまってはならない場所です。

 なぜなら、神の目がそこに向かっているからです。その神の目を侮るように、心の中が見られているとは思ってはおらずに、神にはまるで力がないかのように、自分たちがやりたいようにやって、自分の利益を得る場所となってしまっていました。

 神様は見ていてくださいましたが、民は神を見上げてはいませんでした。全能の父なる神を侮っていました。

 それを真正面から指摘したイエス様。

 「あなたたちは(神殿を)強盗の巣にしてしまっている。」

 この痛烈な叫びが人々に届き、ある人は後に悔い改め、ある人はイエス様を十字架にかけるために動き出したのでした。

 この翌日、イエス様が呪われたいちじくの木が枯れてしまっていました。そのことを見て、民は驚きます。しかし、神の独り子の権威というのは、こういうものです。大自然も従います。木もいちじくも従うのです。主イエスがおっしゃられたとおりになります。それは、主イエスが神と等しいお方であるからです。これが、教会の中心的な教えです。

 御子は実際にいちじくの木をその一声で枯らすことがおできになりました。自然現象もこの世にあるものも、実際には主イエスの一声で思いのままということです。

 神に祈るということの力強さがこの記事からわかってきます。御子に祈り、その御子が一声おかけになれば、そのとおりになります。力強いものです。主イエスの名前を行使して祈ることが許されています。この祈りのちからというのは、主イエスのちからに由来します。主イエスがなされた祈りがそのまま継続されていくのが、主イエスの御名による祈りです。

 しかし、今も昔も人々は、神の力を見上げることを忘れ、自分たちの力であるお金の収集に走っていくのです。

 御子に頼って、神の力にあずかるということはどういうことかと言うと。それは主イエス御自身がこのように教えてくださいました。マルコ11:23以下。

 神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

 神を信じ祈り求めることが、この世の何にも勝って力あることであるとわかります。誰も海を動かすことはできません。しかし、それさえも可能にする力が、神に向かい信じ祈るということの中にはあります。

 ゲッセマネの園で主イエスは民のため、世界のため、救いのためにお祈りしてくださいました。神のご計画を思って十字架が取り除けられるようにと祈られました。しかし、すべて主の御心のままになさってくださいと祈り、御自分が避けたいと思っておられた十字架におかかりになられました。

 それが、人類のための救いの実現となりました。

 天の父のご計画が行われますようにと祈ると、その祈りはとどけられ、実現しました。そして、天の御国に信じるものすべてが入り、実際にこの世においても、神の支配を信じるすべての民が味わうことができるようになりました。

 神の心にかなう祈りはどんな祈りでも確実に実現し、届けられる。そう信じることができます。

 そのためには信じて、信頼して、すべてをかけて主に向かっていなければならない。

 だから、片方でお金のことを考えて、片方で自分の利益を考えてなどではいけないのです。全身全霊で主に向かい。心を主に投げ出し、すべてを主にささげつつ、祈りをささげる必要があります。イエス様がゲッセマネでの徹夜の祈りを想像してください。主はいつもそのように祈られました。

 この祈りの中に力があります。世界を変える力が、神の力が祈りという引き金によって解き放たれるのだと信じるのならば、何よりも先に人は祈るはずです。

 神殿が、そのような祈りの集められる場所。

 世界がその祈りによって変わって行く場所。

 人が変わり、共同体が変わり、神の支配がその場所にあると人々が喜び踊る場所。

 そうなることを主イエスは期待されていました。

 しかし、人々は別のものを神殿の中心に置いてしまっていました。だから、主イエスは激怒されたわけです。

 本当に信頼するならば、祈りは山をも動かすと教えてくださったのです。

 祈りの中に入ってくるのならば、天の父のご愛に触れますので、人を自然と赦すことができるようになります。すべてが、主なる神が中心であって、その御方から愛が流れ、その御方に大事にされて、その御方からすべてをいただき、その御方との関係の中に人生がある。そのように思えたら、神の思いによって人々に接し、敵を赦すという最も難しいことを、神の力により頼んで行うことができるようになるのです。

 祈ればです。祈りは主の心に触れることだからです。

 祈りましょう。主を思いましょう。主との関係を回復することにだけ希望があります。他にありません。アーメン。