「キリストの体」コリントの信徒への手紙一 12:12〜18  

石井和典牧師

 教会共同体はキリストの体です。だから、キリストからエネルギーが与えられます。血液が循環することによって、栄養分が届けられます。各細胞、各部分はこの血液の流れによって生きます。キリスト御自身がわたしたちのために十字架で血を流してくださることによって、血の循環を回復しました。キリストの熱き血潮がわたしたちの内側を流れるようになりました。

 神との関係の回復。神と神経がつながった。神の命が流れるようになった。それによって今までとは違う生き方に召されてしまった。

 聖書の言葉を聞くということ、こちら側から祈りを捧げるという応答。神と人との交わりの中に、尊い主の霊が入って来てくださって、主の霊による支配が実現し、非常に深い交わりの中に、どんなときでも入っていけます。

 しかし、そんな恵みを豊かに味わっていた教会に問題が起こります。イエス様が昇天されてのち、コリントの教会には分派がありました。

 教会がいくつにもわかれてしまって苦しんでいました。真の信仰共同体の特徴というのは、調和と協力です。

 しかし、コリントの教会には賜物が豊かに与えられましたが、「私が正しいあの人が間違っている」という論法で共同体が徐々に破壊されていきました。

 いつの時代も変わらず、身勝手な自分の正義を振りかざす人によって共同体は少しずつ壊されていきます。

 そのようにならないために、パウロはコリントの教会へとアドバイスを書き記しているわけです。彼が、指摘しているのは、どのようにキリストを信じるのかということと、信徒が自分自身のことをどのようにとらえているのかという意識についてです。すなわち、信仰とアイデンティティを回復することによって、教会共同体がよみがえるということを教えようとしたのでした。

 パウロが言わんとしていた教会のアイデンティティ。それは教会が「キリストのからだ」であるということです。これをパウロは、コリントの信徒への手紙のみならず、他の手紙でも何度も言及しています。エフェソの信徒への手紙1:23。

 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 コロサイの信徒への手紙でも教会はキリストの体であると言っています。

 キリストを頭として皆がつながっている共同体。だから、部分同士が、自分が正しいと言い合って、いがみ合い、キリストの体を裂く行為は痛みが伴うのでできない。もしも、神につながっているならば、そのような行為はしないということなのです。痛むからです。しかし、神経が切れてしまっていて、教会共同体を攻撃していても痛みが伴わない人が出てくる。それはなぜかというと頭であるキリストの思いにつながっていないからです。教会は、キリストによって一つにさせられた共同体です。キリストが頭となっているならば、そこにはキリストの平和が溢れてきます。和解によって敵意が滅ぼされた共同体だからです。

エフェソの信徒への手紙2:14〜16。

 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

 このときにパウロが念頭においている二つのものというのは、ユダヤ人と異邦人です。すなわちこれはかつては考え方も、生活も全然違う、まったく一つになることができないと思ってお互いがお互いを差別し、いがみあっていた相手です。

 そのような相手とこそ一つとなることができる。

 それがキリストの体となるということであるということですね。

 これを思い起こせということなんですね。

 実際に主の霊によって一つになろうとしている共同体は隔ての壁がないことを経験します。霊によってというのは、霊は神を感知するアンテナとも言いかえる人がいますが、神様を認識する部分ですね。神に向かって神への讃美によって祈りによって一つになろうとする共同体はボーダーレスにつながることができるようになります。

 文化、伝統、思想、イデオロギー、あらゆるものを乗り越えて。霊によってキリストに向かうということ、神の御言葉に向かうということで一つになろうと考え、自分を捨てるからです。

 しかし、別のもので一つになろうとしている人々は、ボーダーレスに一つになることは決してできません。キリストではなくて、他のもので結局ひとつになろうとしても決して一つにはなれません。仲の良さや、考え方の一致や、ずっと一緒にいるからとか。そんな人間発の動機では、共同体は一つになれません。

 時が来れば、仲違いがはじまるのが目に見えています。

 

 13節を見てみますと、コリントの教会の人々は聖霊による洗礼を受けていたようです。神の霊で心が満たされて、聖霊の賜物を受け、奇跡を経験したり、主の霊で満ちるという経験をしていたのです。12:13。

 つまり、一つの霊によって、わたしたちはユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

 この文章は原文をちゃんと見てみると、「一つの霊によって、一つの体となるために洗礼を受けた」というふうに読めます。すなわち、聖霊のバプテスマ、聖霊の洗礼が与えられ、神の霊が内側にみちみちて、溢れ出すような状態になったんだということを言っているのです。

 そういう状態にまで満たされてなお、教会の内部に不一致が出てきてしまったということがコリントの教会の問題点だったのです。

 それはなぜか、一人ひとりがキリストの体であるということを意識できていなかったからです。自分が攻撃している、敵対しているその相手こそがキリスト御自身であることを意識できていなかったからです。

 意識できるかできないか。

 このことが決定的に重要であることがわかります。

 このコリントの信徒への手紙を書いているパウロ自身が、神様の思いを意識できなかったという経験をしています。パウロは、かつてクリスチャンを迫害していました。殺そうとしていたとはっきりと書かれています。使徒言行録9:1。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

 恐ろしいですよ。よく読めば読むほど怖くなります。クリスチャンを皆殺しにしてしまってもかまわないと思っていたということですよね。

 パウロには、神様がクリスチャンを導いておられるということが全く意識することができずに、むしろ、彼らは異端的な宗教を伝え、邪教を伝え人々を誤りに導いていると思っていたのです。そう思うのならば、相手を殺してしまっても構わないとさえ思えてしまうのが、人間なんですね。

 しかし、そのように思っているパウロこそが誤っていたのです。これこそが人間がすることであると、痛いくらいの懺悔の思い、後悔の思い、良心の呵責を感じながらパウロは痛々しい自分の姿が伝承されていくことを望んだのです。それは、再びこのような失敗を犯すような人をつくらないためでもあり、教会共同体が同じ間違いをおかさないためでもあり、何より神はそんなものをも教会の働きのために用いてくださる方であるという主の憐れみを証しするためだからでしょう。

 もしも、自分が正義に立っていてあの人は間違っていて、その人を攻撃しよう。などと考えていたら、もうその時点でキリストを攻撃しようとしていることになります。あなたが攻撃しようとしているその人こそ、キリストの体だからです。

 そうです、このことを意識することができれば、もう誰も攻撃できない、してはならないということがわかってくると思います。キリストを愛するのならば、もう誰をも敵対視できないということがわかってきます。ローマの信徒への手紙でパウロはこのように述べています。ローマ12:19。

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる。」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

 不義や不条理を経験したとしても、自分で手を下さず、神の怒りにまかせなさい。

 そもそも、主の霊に本当に結ばれているのならば、このような復讐に心を用いるということが虚しいことであることに気づき、すぐにその手をしまうはずです。主の霊を受けてもそれていくことがある。それは私も自分の信仰生活を通して証しすることができる内容です。霊の賜物を受けても、それを何十年も行使しないで、眠らせておいて、自分は正しいことをしているかのような顔をして、主への祈りに全然向かっていない。そういう状態があり得るんですね。

 しかし、今一度、私はキリストの体、あなたもキリストの体。体はお互いの益だけを考えている。決して害を受けることなどを考えてはいけない。このからだである教会共同体が互いに、つかえあい、キリストの体となるならば、キリストがこの世を再び歩んでくださっているような状態になる。そのような期待を持つことができます。みなさま御自身がキリストの体です。その意識を回復したいと思います。アーメン。