マタイによる福音書 6:9〜13 「天の父と御国」

石井和典 牧師

言葉数が多ければ、言葉が上手ければ、言葉が整っていれば、神に聞かれるか。と言えば、そうではありません。御言葉にはこのように記されています。マタイによる福音書6:8。

 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。

 祈る前から、祈りの内容をすでにご存知。それがわたしたちの神様。主は全能者です。すべてを知っておられます。

 ならばなぜ祈るのでしょうか。祈る事自体が尊いからです。

 祈りは神様とのコミュニケーション、会話です。この交わりそのものが大事なのです。

 きれいな祈りをしたから聞かれる。というものではない。

 というよりも、祈りの内容というのは、もう別に特別なことを祈る必要もないのです。主の祈りの中に祈るべきことがらのすべてが記されています。こんなことを祈っていない、だからだめだとか。あの人はこういう祈りをささげているから優れているとか、そんなことでこれから悩んだり引け目を感じたりする必要は全くないということです。

 祈る前から、祈りの内容をすべてご存知です。神様は。

 主の祈りというのは模範的な祈りであると同時に、このようにわたしたちに願い、生きなさいという主からの願いと思いが染み込んでいると受け取っていただけたら良いと思います。この祈りの通り、思い、生きていったらどんなに幸いかという、幸いの道を指し示す祈りです。

 聖書に記されている祈りの言葉を祈っていただければわかってきますが、これらはわたしたちの目を開くものです。

 今まで見ていたものと違うものが見えてきます。特に詩篇は祈りの言葉そのものです。これらをユダヤの人々は朝、昼、晩と読み上げることで祈ってきました。ですから、詩篇自体を祈りにしてくださっても良いのです。それぞれ、これまで見てこなかった神様の驚くべきお姿というものが、各詩篇ごとに開かれていくのを感じられます。

 さらに優れてコンパクトにこれだけだと、教えてくださった祈りが主の祈りです。ですから、詩篇というのは聖書全体の要約とよく言われますが、詩篇自体のさらなる要約が主の祈りと考えてください。だから、最後の最後はこれだけで十分、というものです。もっと祈りを深めたい人は、詩篇を更に読み進めて祈り続けてください。

 本日読んでいます箇所は、主の祈りです。イエス様が教えてくださった祈りです。マタイ6:9をご覧ください。

 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように。』

 御名が崇められますようにというのは、「御名が聖なるものとされますように」とも訳せる言葉が使われています。聖なるというのは、世俗から分かたれて、神に属するものという意味です。すなわち、神さまが神さまとして扱われますように、ということです。ヤハウェなる神が、全能の神として、皆の中心に受け入れられますようにということですね。

 神様を神様として崇めるということはどういうことですか。それは十戒の第一戒を参照してくださればわかります。出エジプト記20:3。

 あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。

 イスラエルの神が、ヤハウェなる神が、全能の父なる神が、創造主なる神が、ただお一人の方であって、この御方以外にはおられないということを、言葉で、信仰で、態度で、生活のすべてで言い表し、信じ、行動していくということですね。この御方だけが世界の中心であられ、神であるということです。私たちを生み出した親はたくさんいるのではなくて、お一人であるということです。

 しかも、出エジプト記を見ると、その御方は、先に救いの恵みで民を常に満たしてくださる方であることがわかります。出エジ20:2。

 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

 このひとつの文章を読むだけで、主が救いの神であり、奴隷状態から解放してくださるお方であり、もうすでにイスラエルの歴史に先に働いて、御自身がどのようなお方かを十分にお見せくださっている方であり、その御方に帰って行けば、その御方だけを神として信じれば、それでこの心は満たされていくのであるということがわかります。

 この御方を心の中から排除してきてしまったこと、御名を聖としてこなかったこと、神を神としてこなかったことこそが罪であったことに気付かされていくのです。

 実は、この「御名を聖とするとは、神を神様とするとはどういうことか。」この黙想をし続けることだけで、そこから十分に必要な信仰の栄養と力とをどんどん引き出せるのだということにも気付かされるのです。

 神を神としていないから、エネルギーが枯渇し、力を失い、様々な出来事に右往左往し、翻弄され、誘惑に負け、神の子としてのあり方を失ってしまう。神を神とするというところに本当に立つことができれば、そのような悩みはすべて解消されます。

 ということは、たったこのひとつの祈りで、主イエスはわたしたちに必要なもっとも大切なことに、わたしたちを導こうとされているということもわかってきます。

 主の祈りのいちばん最初の言葉、これを適当に扱ってきてしまった。簡単に通り過ぎてきてしまった。この言葉に誠実に生き、その言葉に答えることこそ、実は人がなすべきことのもっとも尊いこと、神を神とし、父を父とし。

 本当はこの方が私を生み出してくださっていたのに、その方から離れてきてしまったことに気付かされるのです。

 イエス様の御言葉は、深いです。何度も何時間も、何週間も黙想する価値があります。命が染み出してきます。このように大切なことをわたしたちにその肉をとって、身近にお越しくださって、親身に教えてくださって、やっと分かるようになったわけです。そして、実際に命を感じ、エネルギーを受けることができるのです。神が神であられる、全能の神を向かえいれたらどれだけいままでとは違う人生が待っていることか。

 全く人生が変わります。それを受け入れてきていなかっただけだったのです。

 さらにいえば御名を聖とした、お手本の中のお手本の人は、私はマリアだと思います。お腹にイエス様がおられることを知って、マリアはこのように歌いました。ルカ1:46。

 わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

 わたしの魂は主をあがめというところの「あがめ」という言葉は、ギリシャ語でメガレーという言葉が使われています。私の魂は主を極大に大きくしますという意味です。私の心の中を、主への思いでいっぱいにします。

 そのように歌っているのですね。そして、霊が救い主を喜んで喜び尽くすのです。満ち満ちて、極限まで、主を偉大な方であると崇める。

 そして、神の国、神の支配と神の心が全地にひろがっていきますように、天がまったき支配と、神の心であふれているように、世界中そのようになりますように。

 祈りは実際ここまでで完結しても良いぐらいです。

 しかし、主イエスはわたしたちに必要な糧、肉の食べ物、霊の食べ物が日々必要なので、それらが与えられるように祈ります。さらに、負い目のある人を赦してください、私も赦したように、ということで、赦し赦されという事が前提の、赦しが神の前で人間が目指す先であること、神の民が赦し合うという至上命令の中を生きていることが前提であるという祈りがささげられています。

 赦すことができない人を作っていてはこの祈りは祈れません。

 あまりにも、自分にふさわしくないので、祈れないのです。しかし、祈らなければなりません。そして、赦さなければならない。そうでなければ、十字架のキリストの民としてふさわしくありません。赦しが絶対至上命令なのです。キリストは十字架の主だからです。

 また、誘惑が恐ろしくたくさんあることをおわかりのうえで、誘惑にあわせず悪いものから救ってくださいと祈ることを命じられます。

 クリスチャンの顔色をみると皆誘惑に負けてしまっているのがわかります。誘惑というのは、罪の誘惑です。罪というのは的外れ、神にその思いの矛先が向いているのではなくて、自分に向いている。そのときに罪を犯し、その罪の結果心が暗くなり、光を写すことができない。光っていない人というのは、このように罪を犯しているからです。罪の誘惑に落ちて、光を失っている。

 この祈りの中にさえ実際は生きることができないでいる民の状況がわかっておられるのですね。キリストのもとにあったら、人々は争うことなどできないはずです。しかし、争いが起こります。というのは、キリストのこの祈りを本気で祈っていないからです。

 主の祈りを祈っているようで祈っていない。一番軽んじられてきた祈りであるとも言われます。受け止めているようで受け止めていないからです。実際に適当にやりすごしているだけ。

 でも、本当はそんなことを言わせてはいけないのです。

 ああ、あんなに祈っているけれども、実際の生き方全然違うよね。と悪魔に言われてしまってはいけない。まずは、この御言葉を守ることさえ難しいのだということを認めて、自分の罪を認めるところからスターとです。そこから赦しがはじまって、この主の祈りがまことに自分の祈りとして祈れるところまで主は導きを与えてくださいます。

 自分が主ではなくて、神を主とする。自分の人生の中の主導権を主に委ねる。一部分だけ従えるところだけしたがって、日曜日だけ礼拝にきて、一部分だけ自分の従いたいところだけ従っているといる。それは、御国を求めていることではありません。

 御国を来たらせたまえ。御国というのは、神の私の人生に対する全き支配です。自分の人生のみならず、世界全体に対する主のご支配、主のご存在こそが、この世界の中心にあるというあり方を本当に求めるということです。

 日毎の糧を与え給え。

 今日だけの糧で、ひぐらしのような生活で本当に満足できるのですか、日毎の糧ですよ。

 主の祈りというのは、全部、わたしたちが普段思っていることにぶつかってくる、チャレンジしてくる、罪とはなにかをはっきり示すものです。

 またそれゆえに、わたしたちを十字架の血潮に向かわせるものであります。そのように祈っていますか?皆様は御国の世継ぎなのです。主の祈りを祈りながら、自らの罪をあらためて、キリストの民ととして歩ませていただきましょう。アーメン。