マタイによる福音書 6:12 「赦しの主」

石井和典 牧師

神に対して負い目のある状態。負い目というのは、負債のことです、借金です。それが帳消しにされたのがキリスト者です。どれだけ多く帳消しにされたのかがわかっている人が、より恵み深く他者に対して生きることができます。その多さというものを忘れて行くところに、不遜さ、傲慢さが生まれてきます。

 集まっているものが、自分の正しさをぶつけ合って裁きあうという状態に教会が陥ることがあります。それは、目指すべき方向からずれているからそのようになります。的を外しているのです。神の方向を向いていれば、裁きあうことなどできません。

 なぜなら、赦されざる罪を神の前に犯し続けているのは自分なのですから。赦されざる罪を犯してきたと自覚する人は人を裁くことはできません。

 赦しの中に入っている人は人を裁けません。赦しの中に入っている自覚の無い人は裁きます。イエス様が教えてくださったあるたとえを共に読みましょう。このたとえは、何百、何千、何億回も読み直して、味わい直し、もう一度悔い改めをしなければならない。そんな箇所です。マタイによる福音書18:21。

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

 ペトロは模範解答を答えるつもりで、完全数の七をつかって自分ができる精一杯の赦しの限界を主イエスに言ったに違い有りません。しかし、主はペトロの思いを上回っていました。「七の七十倍」赦さなければならないとおっしゃられました。四九〇回赦せばよいということでしょうか。そうではありません。永遠に赦し続けよということです。ええ!?永遠に!?ですか。そんなこと無理ですよ、、、と言いたくなるでしょう。しかし、人間が神によって赦されているということは、神は永遠の忍耐としてくださっている内容であるということなのです。マタイ18:23以下。

 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。

 まず、この家来が負債を王に対して負っていたということと、その額とに注目してください。王は神で、家来は人間を象徴しています。1万タラントンという借金は、現代の日本円に大体換算しますと、6000億円程度です。6000億円もの負債を負っていた家来。

 こんな前提あるのかと思いますが、神様に対する人間の負債というのは、この程度だということです。それに気づいていないだけで、それだけあるのです。一生かけても、普通の一般人には返しきれない額です。当然王はその負債を払うようにと要求しますが、家来は到底払いきれません。ですから王に懇願します。マタイ18:26。

 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

 こんな額を帳消しにしてやるなどということはありえないのですが、ありえないことが起こり、主君の憐れみによってすべてがクリアーになったのです。その喜びたるや恐ろしく深い、深すぎるものだったに違いありません。

 本来なら、妻も子も、持ち物も全部売り払って、自分の人生そのものを切り売りして、お金にしなければならなかったので。命のかかっていたことです。それが王の憐れみの一声で救われました。

 救われたこと、救われていることの喜びに立ち続けたならば、彼は誰よりも忠実な家臣となりえたと思います。

 しかし、彼は、すぐにこの恩を忘れてしまうのです。すぐに恩を忘れて自分の心のままに走る。これが人間の姿。信仰共同体の姿。教会の姿となってしまってはいないかという指摘です。マタイ18:28。

 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を締め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待てくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた。

 自分が6000億円の赦しにあずかっているのだということを常に意識し、感謝をもっているのならば、このような悲劇に陥ることはありませんでした。仲間を裁く暗い顔をしてストレスいっぱいで人の前にいることなんかできなかったはずなのです。裁きあいの人間の現実を指し示す非常に痛々しいたとえです、このイエス様の言葉は。

 自分がまず赦されているというところに立つことができなかった。怒りをもやし、裁き主として立ってしまうということを大胆に指摘します。

 主の祈りを祈る民は、まず自分が赦される必要のある存在であるというところに帰らなければなりません。まず、「わたしたちの負い目を赦してください」ということを祈り続けることによって、人を赦す赦しの心が与えられ、終わりなき裁きあいの連鎖の呪縛から解き放たれることを信じることができるようになるのです。

 ゆえに、主の祈りを祈り続けるキリスト者というのは、この世に光を投じる存在となります。自分が赦されているがゆえに、何があっても人を赦さなければならない存在として、裁きあいの連鎖、呪縛を打ち砕く存在となります。

 この主の祈りを祈り続けることによって、まず、自分が赦されなければならないものであること。その負債があまりにも大きいものであり、それは6000億円以上に相当するものであって、その自分の負債が赦されているがゆえに、人を赦さないでいることは何があっても決してできないものとして召されている。そのような自覚のもとに、赦しの源がすでに与えられていること、主の祈りを祈る主体とされているものとして教会は歩むことがゆるされています。裁きあいの鎖を打ち砕く勝利者としての歩みがキリストの十字架の赦しによって与えられています。

 主は赦しそのものであるお方ですが、この赦しが私たちの共同体のメンバーによって世界中に広まるように、主の祈りが与えられています。主が赦しの主であられることを端的に言い表した祈りが詩篇にあります。詩篇103:8〜13です。

 主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けることはない。主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。/天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東から西が遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。/父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

 この詩はマタイ福音書で6000億円を帳消しにされたその本人が詠んでいる詩のようにさえ聞こえてきます。赦された額の大きさがどれほど大きいかを自覚し、主の憐れみの偉大さの中で、主の心を味わい、酔い、楽しみ、賛美する。それこそが私たち信仰共同体に与えられている特権であります。神の憐れみの前で、私たちは酒に酔っている場合ではないことに気づきます。主の憐れみの心に酔い喜ぶことができるのです。

 われをも失うような、借金の帳消しが実際には、主イエス・キリストの十字架において起こっていた。神に対して負債を負い続けてきたその負債のすべてが帳消しにされた。神に恩をいただきながら、それらをことごとく無視して歩んできた、的外れの罪が、すべて赦されて精算されて、クリアーになって、スッキリして喜ぶことができる。

 神の憐れみのこころに触れて、我を失うような喜びと感謝の中で酔続ける歩みをしていくことができるそれが実際はクリスチャンの歩みであったことに気付かされます。

 我ら、信仰共同体の歩みの質も価値も、実はこの「どれだけ多くのものを赦されたのか

」という自覚の内にあることがわかります。多く赦されたものが、偉大な神をよりよく理解し、その主の思いに応えていくことができるのです。ルカ福音書7:41以下でも主イエスはこのようにお語りになられています。

 イエスはお話になった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。

 私にとって敵であるような人を、罪を犯した人をどれだけ赦しているのか。そこに、どれだけ深く赦されたかという自覚があることがわかります。多く赦されたと自覚する人は多く赦し、呪いの連鎖を断ち切る存在になります。アーメン。