マタイによる福音書 6:13 「誘惑から救う主」

石井和典 牧師

誘惑に陥るということはどういうことでしょうか。神様ではない別のものに心を奪われて方向を変えてしまうということです。罪というのは、方向を神ではない別に向いてしまうということです。罪は「的外れ」とよく表現されます。全能の神ではない、なにか他のものにまるで力があるかのように考えていくことです。イエス様が荒野で誘惑を受けた時に、最後におっしゃられた言葉が私たちの視野を開いてくれます。マタイによる福音書4:10。

 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

 これは申命記6:13の引用です。イエス様は神様がお教えくださった基本的な聖書の教えを非常に大事にされて、そのまま生きておられたお方です。ですから、申命記の中にどのように悪魔に対抗するのかということも示されているとご存知であるわけです。ただ、世界を造られたヤハウェなる全能なる神の御前に立つこと。ただその御方に仕え続けることをこそ選び取るべきことを教えてくださいました。

 サタンは、なんとかしてこのポイントから引き剥がそうとしてきます。すなわち、神を前にして、神を拝するというところからなんとか目をそらせようとしてくるわけです。礼拝に出席しても、神が前におられないで自分の心に溺れているという状態もありえます。なんでも実は誘惑となり得ます。

 その誘惑に対抗する方法は、主の祈りの中に帰って、主に向かって祈りをささげる以外にありません。対抗する力をお持ちの神に動いていただくのです。

 だから、神を礼拝する共同体の中に帰ってくるということが生命線です。礼拝をささげるマインドを持った民の中に入ってくるだけでまずは良いのです。そこから、御言葉、祈りの中に導かれて主の具体的な導きの道がはじめられていくからです。 

 主の祈りは私たちの現状が誘惑だらけであるということに気づかせます。誘惑が無いという状態にいると思わせることこそ、悪魔の策略です。誘惑などないと思ってしまえば、警戒などしませんから、警戒していない民がいかに簡単に、神礼拝から落ちていくか、悪魔はよく知っています。使徒パウロは特に悪魔の誘惑を警戒していました。手紙を読めばわかります。エフェソの信徒への手紙6:10。

 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の支配者、天にいる諸霊を相手にするものなのです。

 ここに書いてあるように、サタンは支配権を奪おうとしてやってきます。神よりも別の支配にです。だから、イエス様は、言われたのです。

 「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

 ただ、神にこそ栄光を、ただ神にこそ最大の忠誠を、ただ神にこそ、最大の価値をささげ、神の支配権を認めるのです。これが私たちのなすべき戦いです。戦いは祈りの戦いであることがエフェソの信徒への手紙に記されています。6:18。

 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気強く祈り続けなさい。

 キリストの血潮によって勝ち取られた共同体である教会。この教会にはつねに神がどのようなお方であるかが示され続けて、その神の心の中に生きるのならば、人々は救いとエネルギーと命とを常に得ることができる。けれども、目がすぐそらされて別の支配権に委ねてしまうので、方向が滅びの方に向かってしまい、エネルギーが枯渇し、命から遠く離れてしまいます。

 教会に私たちが召されたのは、神の方を向いて、神の言葉を聞き、神に向かって祈り、神との交わりを持ち、神の栄光をこの身をもってあらわしていくことです。主イエスに似たものに変えられていきます。そのためには誘惑におちいらないように祈っている必要があります。イエス様はゲッセマネの園で弟子たちに言われました。マタイによる福音書26:41。

 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。

 肉体に引きづられて常に神を忘れるという罪に陥ることを主イエスはよくわかっておられました。だから、主の祈りを常に祈り、自分の力で誘惑に対処していくのではなくて、自分にはその誘惑に勝つ力がないことを認めて祈り続けることを求められたのです。祈りを最重要視するということは、自分には力が無いことを認め、力を捨てるということです。そして救いの主に委ねるのです。それが祈りです。

 自分でなんとかできる、しようと思っている問題については祈らないんじゃないでしょうか。どうにもできないから祈るわけですね。

 『主の祈り』(日本基督教団出版局)という本を記したウイリアム・ウィリモンは、経済、人種・民族問題、ジェンダーや性の問題、メディア、こういった問題の諸相が私たちの心を支配して、神以外のなにかがその判断基準とか考え方の中心に座りやすいと指摘します。論争や問題になっている事柄というのは、信仰にとって、信仰を忘れさせて別の基準で人を動かす非常に恐ろしい試練となります。私たちを支配し、自由を奪い、神が中心におられるということをいつの間にか否定し、別の判断基準で論争しだすのです。

 ウィリモンの指摘が非常に鋭いものなので引用します。

 「毎週、約五千万人のアメリカ人がそれぞれの教会で礼拝をささげています。それに比べると、映画館に行くひとの数はわずかでしかありません。それなのに今朝の新聞を読んでもテレビを見ても、教会については何一つ言及しようとはしていないでしょう。そこで話題にされているのは、映画や映画スターのことであり、ハリウッドの方がエルサレムよりも重要な場所であると信じさせようとするかのようです。見方によれば、もろもろの勢力の狙いはそこにあります。」(『主の祈り』 ウィリアム・ウィリモン、ステンリー・ハワーワス)

 神様がおつくりになられた教会や神の言葉である聖書が軽んじられて、他のなにかによってすげ替えられていつのまにか人々は気がつかずに関心はすべてそちらの方に行ってしまう。それが今の世であり、クリスチャンもまんまとやられてしまっているということです。使徒パウロはそのような状態をローマの信徒への手紙でこのように表現しています。7:18。

 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 どうにも対処不能の悪が、自分の内側に影響を与えている。ならば、自分の力で対抗するのではなく、主に救いを求めて祈ることが必要になるというわけです。

 主イエスはサタンにどのように対抗すべきかをよくご存知です。

 マタイ福音書4:1以下主イエスはサタンに勝利されて、悪魔は主イエスを離れ去りました。主イエスは悪魔に対処する力をお持ちです。その御方のところにくる祈りをささげるのです。祈りこそ力です。支配権に打ち勝つ力。

 主の祈りは最も重要なこととして、神を賛美し、神を高く掲げることを教えてくれます。神を思い描き、神が一体どういうお方なのかを常に思っていることこそ私たちの力であることを思い起こします。信仰の源泉はここにあります。主イエスを思い描くのです。主イエスの十字架を、主イエスの民に触れられる姿を、主イエスの憐れみと真実を。ここに立って神を賛美しはじめたとき、私たちに天が開かれて行くことを実感することができる。

 そうです、実は主の祈りは、この祈りの中に私たちが生きる必要があることを指し示す、最大の道標です。ここに私たちがあるときに、私たちは神の道を歩ませていただけるのですし、私たちがあらゆる誘惑から救われる道をあゆみはじめる道が示されるのです。

 その日に必要な糧を受けて、それ以上にしばられないようにするには、金銭に打ち勝つ信仰がその内側に与えられなければなりませんし、まず人を裁くのではなく、自分が赦されていることを知り、人に憐れみ深くあることは、ここにこそ神のシャローム(平和)が実現する道があることを思わされますし、あらゆる悪に勝つため力はすべてイエスにだけあるということを認めて祈りにかけていくことは、私たちの人生の実は全てであると気づくのです。

 主の祈りこそ、実は私たちのなすべきことのすべてが凝縮されていると言っても過言ではありません。アーメン。