使徒言行録 9:1〜9 「サウロの回心」

石井和典 牧師

 神に出会いますと、人生が中断させられて、生まれ変わります。思い描いていたものがダメになって、主に示された道へ進まなければならなくなります。

 使徒9:1に「それは、この道に従う者を見つけ出したら」とあるように、人生は道を歩むことになぞらえられ、どの道を歩んでいるかということでその人の歩みが決まります。

 パウロは、壊そうと思って、妨害しようと思っていた道に自らが進むことになりました。敵対していたクリスチャンの道です。力強い働きを神から授けられた人でした。しかし、それは彼が自分で思い描いていた道とは違いました。

 自分が思いえがいていた道は全く誤ったものであったことに気づきました。真逆の方向に方向転換させられたので、彼はその後一切高ぶることができずに、主の僕としての生涯を全うすることができました。

 殺人者であった人が一変、神の御使いのような役割を担い、聖なる者として歩みをはじめるということが起こる。神の民の歩みというのは、恐ろしいものです。この人が変わることはありえないだろうという人が回心して、物事が動き始めるということが起こります。

 誰がみても神の業、人間にはできないものであると認めざるを得ないことが起こります。

 突然、道の途中、光に打たれます。使徒言行録9:3。

 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼らの周りを照らした。

 この天からの光が、一体どういうものだったかは聖書を読むだけではわかりません。物理的な光なのか、心の内に輝く光か。しかし、本人にはよくわかったはずです。本人にしかわからなかったとも言えます。何しろ、この現場でしっかりと起こった出来事を記憶しているのは、パウロ以外にいないのですから。

 ということは、誰がなんと言おうとも、本人にハッキリわかる方法で主はその人の使命をやがてお示しくださるということを読み取ることがでます。

 パウロは地に倒れて、決定的に重要な言葉、彼の人生を根底から変える言葉、主イエスの言葉に出会います。使徒9:4。

 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」

 イエス、イエスの弟子たち。彼らはユダヤ教を破壊する異端分子である。彼らの存在が信仰共同体を破壊することになる。だから、一日も早く彼らを排除しなければならない。そうしなければ、彼らのよこしまな信仰によって信仰共同体が腐ってしまう。

 そのように考えていたからこそ、彼らにこそ神の怒りが下るはずだと信じていたからこそ、自分の手を使って、クリスチャンたちを迫害することができたのです。しかし、それはキリストを攻撃することだった。

 正しいことを行っていると思いながら、悪を行っていました。

 天の父なる神様のために、クリスチャンを排除していっていましたが、その人を攻撃するということは、天の父なる神ご自身を攻撃していることにほかなりませんでした。

 

 しかし、この言葉を聞く事ができたパウロは見捨てられていませんでした。聞けない、耳が開かないということが恐ろしいほど大きな裁きであることがわかります。

 聞こえている内は、まだまだ立ち返る機会があります。

 自分のほんとうの姿を知らされる、見えるようになる、恐ろしい姿に気づいて衝撃を受ける。しかし、このときにこそ回復が起こります。パウロはしっかりと神様を見出しています。光に打たれて目が見えなくなりましたが、彼には本当に大事な主が見えていました。何しろ、彼の言葉の中にハッキリとこの出来事が主からのものであるということを認識している言葉が残っています。使徒9:5。

 「主よ、あなたはどなたですか」

 目は見えていましたが、主が見えていないことが問題でした。目が光に打たれて見えなくなった今、本当に見なければいけないものが見えるようになりました。肉眼によって光が見えていても、真の光である神が見えなければ、ものが見えているとは言えません。

 地に倒れることが必要でした。パウロにとって自我に死ぬことが必要でした。自分に死んで、主よと叫ぶところに立つことが必要でした。

 すべてはそこから変わっていきます。

 神様、あなたはどこにおられるのですか。神様、あなたはどなたですか。神様、あなたは一体どのようなお方ですか。このような問い、倒れくずおれる人生の只中で出てきたら。そのときこそ復活のときとなります。ものが見え始めます。

 実際に自分の声で、祈りで、主に聞き始めたら、もうその時点から、神のお取り扱いは強くはじめられます。

 新しい道への道標が与えられていきます。神ご自身を知りたい、知らなかった。全く勘違いしていた、自分が敵だと思っていた人が実は見方だった。

 必要なことはすべて主から示されます。パウロにとっては自分が正しいことを行っているという自我が大きな壁であり闇でありました。しかし、それらの闇が取り払われて、彼は自我を捨てる祈りの境地に到達します。それはすべて主の光に打たれて倒れたときから始まったことです。その後、彼がなすべきことがつぎつぎと示されていきます。というのも、彼は神にしっかりと聞くように変えられたからです。それまでは、聞こえていなかったのです。だから何をすべきか自分の良心に従って判断していましたが、その良心が汚れていたので、判断が間違っていました。心をまっさらにして主に聞かなければならなかったのです。それを彼は怠っていました。聞いているようで聞いていなかったのです。そして、何をすべきかもそれゆえ聞こえていなかったのです。しかし、今目は見えなくなりましたが、聞こえるようになりました。使徒言行録9:5〜。

 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

 本当に聞こえていますか。主の御声が。パウロが自分に死ななければならなかったように、私たちも自我を捨てて死ななければ、その御声が聞こえてきません。

 自分にとってこうあってほしいというような神様像をこちら側から神におしつけるようにして自分の神を追い求めていてはなりません。パウロは正義を行っていると思っていましたが、それは神を追いかけているのではなくて、自分が作り出した偶像を追いかけていたのです。

 しかし、主はご自身の姿をパウロにあらわしてくださいました。そのときに、大転換がおこります。

 パウロは何も見えず、何も食べられない状態に陥りました。しかし、この3日間の時間が重要でした。自我に死に、肉体も死んだようになってストップすることが。その間に、神様がアナニアという人をご準備くださり、パウロのところにお送りくださいました。安心してください、肉に死んで、自我に死んで自分を手放しても、そこに神の業は起こります。

 神が必要な人を立てて、必要な奇跡をご準備くださって、語りかけをし続けてくださって、誰かを鼓舞し、パウロのもとに送ってくださるのです。

 もちろんクリスチャンの中ではパウロは恐ろしい存在、迫害者として通っていました。だから肉に見える次元において、クリスチャンの誰もがパウロを避けて通らなければというような現状だったのです。だから、このクリスチャンであるアナニアからパウロへの語りかけというのは奇跡でしかありません。しかし、その奇跡が起こるのです。

 アナニアはパウロに福音を伝えます。使徒言行録9:17。

 兄弟サウル、あなたがここに来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおりに目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。

 目が見えるようになって、神が見えるようになって、聖霊で満たされたら、パウロにはなんでもできます。使徒9:22。

 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。

 父なる神に出会い、イエスに出会い、内に住まわれる神の霊にであったら、人間変わります。自分を捨て、自分の十字架を背負って、自我に死んで、主に出会い、聖霊を受けよ。そうすれば、パウロのように新しい人生がはじまります。アーメン。