使徒言行録10:30〜33 「神が清めたもの」

石井和典 牧師

 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(コヘレトの言葉3:11)

 これは新改訳の言葉ですが、記憶しやすい翻訳の仕方だと思います。

 二人の人の出会いを通して歴史が変わってしまいます。ペトロとコルネリウスという人です。ペトロは使徒。コルネリウスはローマの百人隊長です。

 両者にタイミングよく、同時に神が働きかけてくださいました。

 神は全能者ですから、ご自分の思いを実現するために、時を合わせることがおできになられます。ですから、全能の神を知りますと、偶然など何一つないということがわかってきます。

 かたや異邦人、かたやユダヤ人、その二人を出会わせて新しい局面を主は創造なさいました。カイサリアという場所に住んでいるコルネリウスという百人隊長が用いられます。彼は信仰が与えられえ、神に仕える生活をしていました。

 異邦人であろうが、ユダヤ人であろうが、律法を持っていようが、いまいが、守っていようが、守っていなくても、ただ信仰を神が与え、その信仰によって義とされ、導かれて用いられるということが起こっていきます。コルネリウスの普段の生活が垣間見られる一行があります。使徒10:2。

 信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。

 異邦人であっても、ユダヤの民からどうみられようとも、ローマからもどう思われようとも、ただひたすらに唯一なる神を畏れて、祈りに祈っていたということがわかります。「絶えず」祈っていたのですから、いついかなるときもいつも祈っていたということですね。この姿は家族に影響を与え、一家揃って神を畏れるようになっていました。ローマ皇帝を拝するローマの軍隊全体に知れ渡ったら彼がどんな目に合うのかわかりません。殺されてしまうかもしれません。しかし、彼はユダヤ人から聞いた唯一の神に向かっての祈りをやめることはありませんでした。命をかけて信仰に向かっていた人でありました。

 コルネリウスは午後三時に祈りをささげていました。ユダヤの習慣では9時、12時、午後3時と祈りをささげていました。そのユダヤの習慣を異邦人であるコルネリウスもしっかりとまもってきました。この祈りのときに、幻をみます。天使が声をかけてくるという幻です。具体的にどの家に行きなさいという指示がだされます。ヤッファという場所からペトロという人を招きなさいというものでした。カイサリアからヤッファまで48キロもあります。当時は到着まで18時間ぐらいかけていかなければならない場所でした。

 ちょうど良いタイミングでそのペトロも幻をみます。やはりペトロも祈るために屋上に上がっていました。このように、祈る人を通して主は御業を起こされることがわかります。昼の十二時に祈ろうとしているのですから、ペトロもユダヤ人の祈りの習慣(9時、12時、3時)にあわせて毎日神に祈っていたということです。しかも、ちょうどお腹が減って、ご飯時で、皆がご飯の準備をしているときに、食べ物の幻を見たのでした。

 大きな布のような入れ物が四隅を吊るされて地上に降りてくる。その中には食べてはいけないと律法で定められているものが中に入っている。しかし、声が聞こえて来ます。使徒10:13。

 「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」

 という声が聞こえました。旧約聖書の規定上食べてはならないものと指定されていたものは、それは汚れた食べ物として絶対に口にしないようにと教えられ、実践してきたのでした。それを方向転換して、神が清めたものだから食べよという神からの言葉を受けたのでした。そういう幻を三度同じようなものを見たといいます。

 これは全く今まで考えてもみなかった大転換を迫られる内容でした。彼は律法を字義通りそのまま守ることこそ、神の心に従うことであると受け止めていたはずですが、必ずしもそうではない、神はこの時から変化を起こさせて、新しい時代の到来を宣言なさったのでした。異邦人が救いの中にいれられるという時代を作り出そうとしておられる。そのことを、「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」という一言ではじめられようとされているのです。

 神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。この言葉の範疇にまさに異邦人である私たち日本人も入れられています。もともと信仰教育を受けて、御言葉通りに生きてきたわけではありません。きよいものではありません。とことん道を踏み外して、神の教えから外れていました。いや、汚れたものです。しかし、その汚れたものをも受け入れると神はお決めになられたのです。このペトロとコルネリウスとの出会いから、その働きが大きく広められていきます。

 ペトロがこのような幻を見たからこそ、現代の極東の日本にまで、聖書が届けられていると言っても過言ではありません。

 コルネリウスはローマの百人隊長です。このような異邦人がユダヤの信仰共同体に受け入れられることはほとんどありえません。しかし、コルネリウスの内側には、ユダヤの人々に負けない信仰深さがありました。神はこのように異邦人の内側に信仰を起こさせて、この異邦人が受け入れられることを通して、ご自分の御業が全世界に、異邦人に広められていく道を作ってくださいました。いままで起こり得なかったことが、神の宣教という観点から起こり始めるわけです。

 神のご支配のもと、これまで考えられなかったことがつぎつぎと起こります。例えば使徒9:25において、コルネリウスがペトロの前にひれ伏していますが、これも本来はありえません。

 ローマの百人隊長が属州のユダヤの民にひざまずくなど、当時の社会ではあってはなりません。ローマの権威が失墜してしまうからです。しかし、そういったことはお構いなしなのです。信仰の世界にすっかり生ききっているコルネリウスの姿があります。この百人隊長はただ神の権威を畏れて、ただ神に遣わされたペトロ、その神の権威の前にひざまずいたのです。

 コルネリウスは、自分の家に家族だけではなく、たくさんの人々を招いていました。信仰を与えられていたローマの民でしょう。彼らは神のご介入を信じて、神の言葉を聞きたいと常に思っていたに違いありません。

 ローマ人で全能の父なる神を信じるということは危険のともなうことでありました。全能の唯一なる神を信じるということはローマ皇帝よりも上の権威を認めるということだからです。他の神々をローマ皇帝を頂点としてあがめているということなら別です。ローマからのお咎めはないでしょう。しかし、全能の神を信じるということは違うのです。

 いつ、神への信仰が否定されて命を奪われてしまうかわかりません。しかし、彼らはそんな中でも信仰を守り抜いて来た人たちでした。彼らの思いはペトロの一言ですべて報われます。使徒10:28。

 「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者と言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐに来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」

 神が異邦人を清くないなどと言ってはならないとおっしゃられたというこことです。

 主イエスの十字架の出来事によって、すべての民が清められるという道が開かれました。それまでは、ユダヤの民以外にありえなかったのです。しかし、主なる神はキリストを十字架におかけになられて、ローマの民も、その信仰によって神のもとにくることができるようになりました。

 異邦人もユダヤ人も区別なく救われるという道が、完全に開かれたのでした。

 信じて信じて信じ抜いて、苦労して苦労して、苦労して、悲しんで、悲しんで、悲しんで。しかし、たった一言で報われる。

 ペトロの一言で、世界が変わったことを知った。

 さらに、この不思議な神の導きで、幻によって時が重なり、ペトロとコルネリウスが出会うという奇跡がおこり、そこに神の愛、異邦人に向かうその心。その時が開かれたということを悟ったのです。今この時、ここでこそ、信仰が花咲くその日が来たとこのローマ人の共同体は悟ったに違いありません。たった一言で世界がすでに変わってしまっていることを受け止め、味わったのです。

 聖書を読んでいますと、たった一言、この一言があったから、私の今日の一日もこれまでの日々も、これからも変化し変わるという言葉に出会います。この聖書は黄金よりも価値が高いものです。すべてのものにまさって価高いものです。

 この出会いによって、目が開かれてしまうのです。

 神が片時もはなれずに、このペトロとコルネリウスの動向に目を向けてくださり、ときにかなって働いてくださり、二人は出会い。新しい視野が開かれて、彼らによって新しい世界の扉が開かれました。

 すべての民が、異邦人もユダヤ人も、日本人も何人も区別なく、ただ信じる心によって救われるのです。

 コルネリウスの祈りは、信仰から来るものでした。コルネリウスの施しは、信仰から来るものでした。ただ主に対する畏れを持ち、そのとおり行動するものに、神はお答えくださるのですね。

 必ず主は信仰に応えてくださる。その時をくださり、あぁこのときのために私は生きてきたのだなと気づかせる瞬間を作ってくださるのです。

 あぁ、この時のためだったのですね。

 そんな瞬間が来ます。祈りましょう。アーメン。