使徒言行録 11:1〜18 「異邦人が信じる」

石井和典 牧師

 神の言葉はどこでどう広まっていくのかはわかりません。思いもしないようなところで伝わっていきます。

 今このお写真を掲げていますが、この一人ひとりから、今もどのように福音が伝わっていくかわかりません。

 どうぞ、どんなことがあったか思い出してください。思い起こすことで新しいことがおこるでしょう。それぞれの道において主を覚え始めると、過去も未来も変化します。箴言にこのように記されています。箴言3:6。

 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

 神の業は至るところにあります。それを我々が見ていないだけです。見れば、発見され、私たちが発見すれば新しい業が起こります。

 出来事があります。過去も、未来も、私たちにも、またこの永眠者の方々にも。その出来事の中に、主を見出すと主の御業が起こっていることに気づきます。

 ステファノの事件によってエルサレムの教会の人々は散らされていってしまいました。アンティオキアという場所にも人が散らされました。アンティオキアは当時の人口は50万人、大都市でした。そこは偶像礼拝と道徳的な退廃がひどく浸透してしまった都市でありました。だから、彼らははじめはイエス様の福音を大胆に語るということではなくて、口を閉じていたのだということがわかります。使徒11:19。

 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。

 迫害がありました。ステファノが石打で殺されてしまいました。ユダヤの民に殺されました。にもかかわらずユダヤの民に神の言葉を伝えていたのです。「ユダヤ人以外のだれにも」と記されているのですから、ユダヤ人には伝えていたのです。

 非常に勇気ある行動をクリスチャンたちはとっていました。伝えるべき人に伝えていました。もしかしたら、新たな迫害がユダヤ教から起こってしまうかもしれないという中です。

 アンティオキアというところでは、思いもよらないことが起こります。使徒11:20。

 しかし、彼らの中にはキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについての福音を告げ知らせた。

 ギリシア語を話す人と記されていますが、これはギリシア人です。ユダヤ人ではありません。このギリシア語を話す異邦人に語りだすものたちが起こされていました。キプロス出身の人々です。キプロスは地中海に浮かぶ島。キレネというのはアフリカ大陸、キプロスの向こうにあるクレタ島の南あたりです。ギリシア語を話し、異邦人と交わりをもつことができたものがいたのです。その者たちが自分の境遇を生かして、このギリシア人たちに語りだしたのです。

 すると、使徒11:21。

 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち返った者の数は多かった。

 と記されています。「主がこの人々を助けられたので」というのは他の翻訳を読むと、「主の御手が彼らとともにあったので」と記されています。主の導きを信じて、キリストの十字架と復活を語り始めたのですが、主の御手がそこにあったので、信じるものが多く与えられました。

 ステファノが殺され、迫害され、エルサレム共同体も散らされてバラバラになっていった。しかし、そのバラバラになったということが幸いして、異邦人がさらに信じるようになっていったのです。

 行くところどこにおいても、そこに神の御業を認めるならば、主はその道をまっすぐにしてくださいます。環境や状況が問題というよりも、その人が信じるかどうかが問題です。信仰があるかないかです。

 あの人はユダヤ人だから土台ができているから伝えやすいんじゃないかとか。あの人はギリシア人だから、多神教的な考え方の土壌があるから伝えにくいんじゃないかとか。

 こういう分析があるのでこうなる。というようなことを考えて実際に行動していくわけですが、分析自体が悪いとは言いませんが、究極的には伝える側が信じているか信じていないかだけが問題なのです。

 信じていれば、行動も言葉も変わります。なにより、主がこの人々ともにあり、常に助けを与えられるわけです。

 そして、信じている人たちの行動とその結果は、周りの状況を動かします。

 エルサレムに迫害があるにもかかわらず残っていたクリスチャンの心を奮い立たせるのです。その行動は一人のところでとどまらない、派生的に影響を与えあって、共鳴しつつ広がっていきます。問題はそこに信仰があるかどうかです。主をそこに見るかどうかです。

 アンティオキアについに教会ができました。ただはじめは信徒たちが一人ひとりに伝えて、特にギリシア人に伝えるということに力を入れていましたが、エルサレムからバルナバという人がやってきて民を励まして共同体ができていきます。バルナバがその励ましの中心でした。励ましを与えるために人を送るとそこに命が吹き込まれて、共同体ができあがっていくのですね。使徒11:23。

 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。

 神の業を見るのです。すると喜びに満たされます。さらに主がそこにおられるという信仰を堅くもつようにと勧めていきます。バルナバは記されている通り、立派な人物でした。どのように立派なのかというと、聖霊と信仰に満ちていたからです。だから、アンティオキアにおいて起こっている主の業を見、主の異邦人に与えられた恵みをくもりなきまなこで見。そこに主の業があると信じて、信仰に生き、他の民も信仰に生きるようにとすすめていたからです。聖霊に満ちているというのは、まさにここに主の御業がありと信じて、人々を励ましていく人であるということがわかります。

 神の御業があるのに、神の御業を見ないで、人々に不安を与え、分断し、目でみえることで分析をし、信仰を働かせることをしない人は肉の人です。争いと不和と滅びを持ち込みます。バルナバを見ていればわかりますが、彼がこの共同体に持ち込んだのは、励ましです、力です、慰めです、環境に左右されない信仰の力です。

 信じて励ますと、それがそのまま主の業につながっていきます。主の業のために努力している人に心を開いて、そのために、自分もその身をあわせていきますと。主の業を見ることができるようになります。

 ここにお写真に掲げられている人々の中に、主の業があったと信じて、思い起こしますとと、そこに主の業があったことに気づきます。

 そして、その主の業と私はつながっていることに気づきます。想起できること、思い浮かべることはできること、それはすべて主の業を見出すことができるようにと残されている記憶です。どうぞ信じて物事をかえる人となってください。

 主の民、バルナバ、その他無名の信徒たち。この者たちは、信じて変えて行きました。アンティオキアに教会が彼らによって建てられていきます。

 ステファノはユダヤの民にデマ情報を流されて捕らえられて、最高法院で裁判を受け、有罪判決を受け、石打にあいますが、彼の信じる姿を見て人々は出ていった先でもどんな場所でも信じることをやめなかったのですね。その結果教会ができていきました。教会を作り上げるのは、共同体を建てあげるのは信じるということです。

 使徒7:54以下のステファノの姿が各地に散っていくクリスチャンの心の内側にあったに違いありません。本日の11:19にも、「ステファノの事件をきっかねにして起こった迫害のために」と記されているので、この時のすべてのクリスチャンの心のうちにステファノが殺されてしまった悲しみがあったに違いありません。

 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノめがけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。

 ステファノは神を見ていました。この状況でも信じていました。主を。

 驚くことにここにいたサウロが、バルナバによって連れて来られて、いま話しているアンティオキア教会を建てるために用いられていきました。ステファノ殺害の発端になって、そのことで人々が散らされて、大変な目にあっている。しかし、その問題を作った張本にであるサウロ、ステファノ殺害に関与したその人が、回心してアンティオキア教会をつくるために用いられたのです。

 どんな状況であったとしてもそこに主を見る人たちのところに主の驚くべき業が起こされるのですね。

 どうぞ、永眠者、お一人お一人を思い起こしてください。この人々の中に主の御業があると信じてください。そして、主の驚くべき御業を目の当たりにしてください。主は時を超えておられます。過去が現在であり、未来が現在であるお方です。この御方に祈り物事を変えてください。主の御業が起こりますように。アーメン。