使徒言行録13:46〜48 「讃美の声があがる」

石井和典 牧師

 神の御声に聞いて命に預かっている人たちの特徴は賛美、祈りが中心にあるということです。

 そうでない場合には、本日の箇所にでてきますように、ねたみ、ののしり、敵対という形をもって滅びの道へ歩みをはじめてしまうのだということがわかります。信じているものたちの中にこのような問題が起こります。このねたみにとらわれてしまった人たちはとても真面目なユダヤ人であったのだということがわかります。ですから全能の神を信じていた人たちです。一生懸命神の御言葉に聞こうとしていた人です。

 しかし、その向かっている先がずれてしまっていました。神に向かうのではありませんでした。自分に向かっていました。パウロやバルナバをおとしめて、自分を上げるという目的に。愚かな方法によって、自分たちが偽物であることを示してしまっていました。

 パウロの説教は、キリストが神の御子であること、キリストが統治者であり、復活者であること。キリストの復活と統治、罪の赦しと解放、終末の時代のことと神の御国、という内容で構成されていました。

 この新約聖書に記されている内容を受け入れるのか、受け入れないのか。もしも、ユダヤの民が受け入れないというのならば、この知らせは異邦人に向かって開かれていくということがパウロが伝えていた内容でした。

 パウロの言葉によって目覚めていたものたちは、パウロの言葉を次の安息日にも聞きたいと頼みました。使徒13:42〜43。

 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。・・・神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

 パウロとバルナバ、彼らを攻撃していたユダヤ人の態度の違いに注目してください。

 明確に、「天」と、「滅び」とを対照的に指し示しています。

 パウロとバルナバは、信仰に生きる人達を励まして、豊かに命にあずかり、内側に霊的な祝福が与えられて、その内側から溢れ出す力によって他の人々に良い影響を与えていきます。

 命と力というのは外に溢れて広がって生きます。植物が繁茂してつぎつぎと外に向かって成長していくように、命から命への連鎖が起こり、自然と広がっていきます。これが神の秩序です。

 しかし、滅びの方向性をもっているものたちはどうなるのかというと、ねたみ、ののしり、敵対です。

 「命」を生み出すのではなくて、「破壊」に向かっていきます。しかし、自分では破壊に向かっているなどとはつゆとも思っていませんから、これまたたちが悪い。これがつねに信仰者の周りで起こっていることです。

 とりわけ、福音に明確に生きて、その歩みの中に神の御手を見出して、御言葉に従って、自分の歩みの中に御言葉を信じて歩き始めるものたちに対する妨害というのは強くなります。福音に生きるということは、明確にこれまでのあり方とは違う歩みをしていくということだからです。

 パウロはかつてはサウロというヘブライ語名を名乗り、旧約聖書の律法だけ語り、その戒めを守り、この戒めを厳格に守り抜くことこそが、信じるもの、また完成に向かうものの歩みと思っていました。しかし、この思いから彼は抜け出していったのです。キリストと出会うことによって。

 キリストの福音によって値なしに異邦人まで救われる。値なしに救われる。キリストの血潮の功績のみによって。この境地にいたり、そこからすべての行動からなにまで変化して、神の力に満ちた人に変えられてしまっていました。

 その姿は、ユダヤの人々からすれば許すことはできないことです。ユダヤの民はその方向性のベクトルが自分に向かっていたのです。値なしに救われるですって、それではこれまで律法に従うために努力してきた自分たちのあり方はどうなるんだ。その古い自分を捨てることはできない。だから、パウロが言っていることが間違っているとなるわけです。しかし、パウロが伝えていたのは、キリストのご命令のみでした。

 キリストの御前に生きますと、人はその内側の本質があらわにされてしまいます。福音はその人がそれに生きる人か、敵かをあらわにします。

 敵というのは、聖書を有していると考えて、律法を実践しながら、神の御心をすでに知っていると主張する人たちでした。それは容易に自分の正しさを主張し人を裁くあり方へと変化していきました。つまりは、人間の利己的な意志と道徳、動機が中心にあって神が中心あるわけではない歩みということですが。

 人は必然的につねに、自己顕示欲、自己満足、自己崇拝に向かっていきます。

 ただただひたすらにキリストがおっしゃられることに従おうとしているのか、自分の個人的な思いを実現しようとしているのか、それらは客観的に見ることができる人が見れば、すぐに分かることです。目が開かれている人にはその違いがわかります。そして何より、神様にはすべて開かれています。しかし、本人がそれに気づくことは至難の業です。

 聖書の言葉を通して私たちは自分を見ることができます。ユダヤ人のように滅びの思いに従っているのか、それともバルナバとパウロのように主に仕えて、命を生み出す働きをしているのかです。

 バルナバとパウロは、ユダヤの人たちのこのように言います。使徒言行録13:46。

 神の言葉はまずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい。わたしたちは異邦人の方に行く。

 御言葉に聞き従うかどうかというのは、その人の姿勢を見ればすぐにわかります。使徒たちをののしるということは、神がこの人々を遣わしたということを見ずに、自分の思いをこの人々に押し付けているということです。

 それは、実は使徒たちに対してしているというよりも、神にその信仰をぶつけている行為です。信仰というよりも不信仰を使徒たちに向かってぶつけています。人に対する行為や態度の一つ一つに神をどのように信じているかということが現れています。

 使徒たちが主に従う歩みをしていたのは、使徒たちが「ねたみ、ののしり、敵対する」という行為に溺れなかったことからわかります。

 主がおられるのです。彼らの周りには。

 だから彼らが尊大になって誰かを裁くというようなことは決してできませんでした。

 パウロとバルナバの近くには御言葉が常にありました。御言葉を根拠として行動していました。使徒言行録13:47。

 『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために』

 これはイザヤ書42:6の引用ですが、メシア、キリストを指し示す言葉です。彼らのすぐ近くには、主イエスを指し示す言葉、また主イエスご自身の言葉。その御言葉に根ざした心、聖霊なる神の導きが常に内側にありました。イザヤ書42は1節でこのように預言しています。

 彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。

 彼というのはイエス様のことです。メシア・キリスト。イエス様こそさばき主であることを見ているわけです。ですから、裁くのはその御方なのです。メシアキリストを預言する言葉とともに、敵対者に対抗することなくただそこにあるというのがパウロとバルナバの姿です。

 迫害してくるものに徹底抗戦して、論破して、説得するのではなくて、ただ御言葉とともにあることを証しつづけるのみ。それが使徒たちの姿です。キリストに仕えるものたちの姿がここにあります。キリストがすべてを与えてくださるという安心感のもと、すぐ近くにキリストを感じ、暴力にうったえることがない。パウロとバルナバに対する暴力的な発言や行為はすさまじいものがありました。しかし、それに対抗する力を彼らは持っていました。それはキリストです。キリストがおられるので、御言葉がスグ近くにあるので、彼らは平安のうちにあることができました。

 人間同士が話し合って裏で根回しして、扇動して、自分の持っていきたい方向に物事をもっていく。こんな不信仰な歩みはありませんが。ユダヤの民は信仰の民だと自分で認めて周りに吹聴しながら、そのような行為に及んでしまっていました。滅びの方向性にあるものたちの姿です。50節。

 ところが、ユダヤ人は神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。

 結局騒ぎ出した人々によって追い出されてしまうわけですが。しかし、彼らはその滅びに向かうものたちとは関係をもたずに、足の塵を払い落としました。使徒13:52。

 他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 と記されているように、内側にやってくる喜びに徹底的に満たされていったのでした。足の塵を払い落として、弟子たちと関係のないものとされてしまうということはどういうことを意味するのかといいますと。使徒18:6。

 しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」

 使徒、また真の弟子たちをののしるということは、足の塵を払い落とされ、キリストの十字架と関係のないものとして、自分の血をかぶり、自分の血によって完全に罪が赦されることなどないので、滅びを自らに招くことになるのです。

 「讃美の声が満ち」ているでしょうか。「ねたみ、ののしり、敵対する」心が満ちているでしょうか。

 内側に主の命を宿して歩むために、神の国が私たちの内側から満たされて人々を満たすために私たちは召されたのです。何が心にあるのか。信仰か別のものか。今自らを省みて、パウロとバルナバが得ていた、キリストをすぐ近くに味わう信仰を与えていただくように祈りたいと思います。アーメン。