使徒言行録14:24〜28 「信仰の門が開かれる」

石井和典 牧師

 キリストの使徒パウロの内側にキリストが宿っているのが見えます。パウロは殺されそうになりました。石打の刑にあったら通常であれば、死にます。しかし、パウロは死にませんでした。それは復活の命であるキリストが、聖霊がうちに宿っているからにほかなりません。神の奇跡です。主の使命のために完全に献身して。完全に献身するものに主が伴ってくださり。主のみ心であれば人は何を経験しても生き続ける。死なないということを見せてくれました。

 不思議ですが、この不思議こそが、神を信じるものたちが体験することです。

 パウロたちがなぜ殺されそうになったのかといいますと。使徒言行録14:3。

 主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。

 御言葉の宣言、祈りによって癒やしや奇跡が起こるものですから。これまでの宗教的な既得権を持っていた人たちは妬みました。人々の関心が自分たちの方にではなくて、パウロやバルナバの方に行ってしまうからです。

 ゆえに、ねたみやののしりがパウロたちに集中してふりかかってきました。

 神の支配がやってきたことを共に喜ぶということが本来の信仰共同体のあり方です。自分の思いの中に埋もれて、神の業よりも、自分の心の中にある思いが先になってしまう者たちが出てきてしまっていたということです。信仰共同体をつくっていくときに、いつもこの問題が吹き上がってきます。

 はじめは神の言葉を聞こうとして集まってきていたユダヤの民です。しかし、その心の内側に、別の方向を目指すもの、自分が高められたり、自分の思いが通ったり、自分が称賛を受けたいという思い。とにかく神に栄光を帰する思いと違う思いが入ってきます。すると、最初は信仰の道を歩もうとしているようにみえていた人たちが豹変する。信仰深そうに見えていた人が、大きく道を外れるということが起こります。

 しかし、逆に言いますと、恥も外聞もなく主の言葉に忠実に従おうとした弟子たちの姿をご覧ください。そこには常に奇跡が起こります。神の介入があります。神の国がここにありという確信があり、その場所が慰めと癒やしであふれるのです。

 それはひたすらに主の方を見ているから起こることです。人々の信仰に応えて主はご自分の業をなさいます。パウロもバルナバも見ていたのは自分自身ではなくて、神です。どんな瞬間も変わらず例外なく。その思いに応えて主はお働きくださいます。

 本日の箇所、また少し前の使徒14:19以降などを読んでいきますと。神の言葉と共に歩む歩みというものがいかに力強いか見えてきます。使徒言行録14:19〜20。

 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

 石打の刑にあっても死なない。パウロを陥れようとするものたちは結託して、扇動して物事を行おうとします。よこしまな思いです。人の思いで動かそうとすると、その思いはすかさずよこしまなものとなります。人間の思いや、神さまからの命令で動くものでないものたちは、このような動きを常にします。非常にわかりやすいです、神の心はお構いなしになってしましまうのです。自分の思いを通すために。

 しかし、人を恐れて、人に左右される必要はありません。主はパウロに必要とあれば、復活の力をお与えになられます。石投げの刑にあっても、次の日元気に外に出ていくことができました。神が願われたら死にたくても死ねない。生かされ使命が達成されるのです。

 石打の刑のあとに!パウロは各地の教会を励ますために旅に出ます。使徒言行録14:21〜22。

 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコにオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。

 奇跡です。石打の刑の後、仮に生き返ったとしても、このように各地を回って旅をするなど人間業ではありません。

 しかし、主はパウロの姿を通して、主イエスが生きておられること、また聖霊がパウロに働いてパウロを力づけ続け、決して弱り果ててしまわないようにしてくださっていること。どんな苦しみも乗り越えることができることをお見せくださっています。起こったことすべてが神の業であると受け止めています。 

 「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」

 という一言から、この出来事でさえ神が許された出来事であり、この出来事は神の国に入るプロセスをたどっているのだと認識しているのがわかります。

 パウロの口から不平不満とか文句とか一切感じられないのがおわかりでしょうか。パウロに石を投げた連中をパウロは呪っても良いはずです。無実の罪なのですし。彼らの動機はねたみなのですから。信仰を神に向かうための心ではなくて、他者を裁き自分を上げるために道具にしてしまっているのですから、パウロはいくらでも文句を言うことができたと思います。

 しかし、一切言いません。それはすべての歩みの中に神の導きがあると信じているからです。すべての歩み中に、例外なく!です。すべての歩みの中に例外なく!主の業を見ていますか。

 パウロにはインマヌエルなる、共におられるキリストとご一緒に、キリストの苦難にあずかり、キリストご自身をこの世で生きるという自覚があった。だから、「多くの苦しみをへなくてはならない」という自覚があったのです。フィリピの信徒への手紙の中でパウロはこのように信仰を告白しています。フィリピの信徒への手紙1:20〜21。

 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

 生きるとはキリストを生きることである。キリストの言葉を知り、キリストの体としてこの世を生きる。キリストの言葉なしには生きられないし、キリストの言葉によって生きるのであれば、神の御力で満ちる。キリストを生きる。キリストのように。たとえ死しても、復活する。

 キリストの言葉をそのまま行って生きる。それはキリストのように己を低くする歩みになると思いますが、しかし、その歩みの中には恐るべき力と権威が溢れてくるのがわかります。パウロは石打刑にあいながらも、神の言葉に忠実であるがゆえに、神の力によって立ち上がることが許されました。そして、このパウロを人々は恐れました、14章の初めの方ではパウロを神と崇めるような心をもってしまうものがいました。それはパウロに権威と力があったからです。神は全能の父なる神しかおられませんので、自分を崇めるのをやめろとパウロは言います。しかし、確かにキリストの権威が見て取れる形でパウロに現れたのです。

 神のご命令によって、神の言葉によって生きる。

 神の言葉どおりに生きている人。残念ながらたくさんいるわけじゃない。この現実をなんとか乗り越えて行く。クリスチャンは聖書の勉強はすごく一生懸命にするです。しかし、受け止めた言葉を、スルーして生きている。

 本当に大事なことは、受け取った言葉をそのまま生きることです。キリストが住んでくださっている自分を生きる。そういう人は本当に現代にいるのか、いないんじゃないかと思ってしまっていました。どこか教会に対する諦めのようなものを持っていました。

 しかし、います。ちゃんと生きている人がいます。神の言葉で生きているので、神が必ず行動してくださると信じて、そのまま生きている人がいます。

 先日韓国に伺って平澤大光教会のペ・チャンドン牧師とお会いしました。先生は、講演を長時間に渡って行ってくださって勉強になりましたが。

 その話のすべてが神様がこのように生きよと命じておられるので、実際に生きてきましたという証しでした。自分がこう生きたいからこういう歩みをしましたではありません。聖書で神様がこのように命じておられるので、その御言葉を根拠に生きていますということでした。

 具体的に言いますと、先生はこの御言葉によって生きています。マタイ福音書の28:19〜20。

 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって、洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあながたと共にいる。

 洗礼を授け、民を弟子としなさい。弟子とはキリストの言葉をすべて守るものである。キリストの言葉を好きなところだけ聞いて、聞きたくないところは無視して歩んできた。そういうクリスチャンを変えるというのが先生の使命だというのです。

 たしかに、弟子というのは師のおっしゃられたこと「すべて守る」ものです。それが行えるか行えないかではありません。できてもできなくても「守る」ために行動するものです。そのものを主は聖霊によって守ってくださいます。

 主の言葉を自分なりに解釈するのではなくて、従っているものを主はお守りくださっているではありませんか。今も昔も永遠に変わらず、主は従うものを確かに守られます。

 パウロは守られました。使徒言行録14:27。

 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。

 神が行われたことをパウロは見ました。具体的にいうと、絶対に開かれることがないと思われた異邦人への信仰の門が開かれたということを経験しました。絶対に開かれることはないんじゃないかと皆が諦めているような信仰の門が開かれる。それがクリスチャンの歩みです。

 わたしたちを通して、キリストの血によって清められて、信仰が与えられて、聖霊を受けて、聖霊が確かに生活の中にご自身の業をなしてくださっていることを見て喜ぶものがでてくるのです。

 確かに、神が行動されました。ご一緒してくださっている方が。私たちのうちにおられる方が。

 キリストの血によって清められたのは、このように神を日々の歩みの中で体験しつつ、民に証しをするためだったのですね。

 そして、神の支配がそこかしこあることを知らしめるためだったのですね。神の国のために働きます。そのような毎日が展開していくように、祈り、清めを願います。しもべとして、神の力を体験しますように。アーメン。