使徒言行録15:1〜11 「すべての民に聖霊が」

石井和典 牧師

聖書に慣れ親しんで、読めば読むほどに、自分自身がイエス様の示してくださっている基準から程遠い人間であることを知ります。だから十字架の赦しがなければ自分は決して救われることがないことを知ります。

 行動を整えてから救われるということではないのです。行動はどうやっても神の前に整えきれません。聖書に従おうと努力はしています。毎日主の御心はなにか探っています。しかし、その行動が熱心になればなるほどに気づくのです。主の思いから離れていると。そして、主の十字架の御前にひざまずくのです。

 すると、主イエスが赦しの眼差しで「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」とおっしゃられた言葉を聞きます。赦しが先にあって、その赦しの中で主の御声を聞き、赦されて赦されて、赦されて、そこでなお悔改める。

 このような歩みです。赦しに帰ってくることができる幸いな歩みです。

 赦しが先にあってこそ、聖徒たちには力が与えられるということを経験しているはずです。あなたのために命を捨てた私の愛に生きなさい。そのような御声を聞く時に、聖なる民は励まされ力が内側から湧いてくるものです。

 だから、旧約聖書の要求を守ることができているかどうか、ユダヤ人のように生きることができているかどうか、そういったことは、イエス様の十字架の後ろに退くものです。旧約の律法は養育係であると記されています。ガラテヤの信徒への手紙3:24。

 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。

 旧約聖書の律法はそれを実行できるから正しいものとされて、救われて神のもとにいけるのだということではなくて、律法をだれも完全には実行することができなくて、神のもとに行き、赦しを乞うしかないということを知るためのものであるということですね。

 神の心を知り、その神によりそって行きていく。そんな幸いを与えてくれる法なわけです。すばらしいものです律法は。しかし、それを実行できたから救われるというわけではなく、神の行動によってのみ救われるのです。

 キリストに救っていただかなければ誰も救われることはないということです。

 使徒パウロはアンティオキア教会からスタートして伝道の旅をはじめていきました。ユダヤ人にもギリシア人にも区別なく、主イエスが救い主であることを伝えて、信じる人々が沢山でてきました。しかし、常にユダヤの人々との対立の間に立たされてきました。

 というのも、主イエスへの信仰だけによって救われるという福音の調べがどうしてもユダヤの人々には違和感があったからです。パウロが祈れば人々が癒やされました、立ち上がる事ができない人が立ち上がりました。生まれつき足が不自由だった人がですよ。立ち上がりました。一度も歩いたことがない人が歩き始めました。こんなふうに記されています。使徒言行録14:8〜10。

 リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。

 これらはすべて神様の業です。パウロの業ではありません。パウロには力がありません。癒やされた人のうちに信仰があること、その信仰に神様がお応えくださった。キリストの御名による栄光ですね。このように純粋に神の業を信じるパウロの周りでは不思議なことが起こりますので、たくさんの人々が集まってきたました。

 人をひきつけていますとそこにユダヤ人の妬みが起こりました。そして、パウロを皆で石投げの刑に処すなどというところまでエスカレートしてしまう場面もありました。

 ユダヤの人々は旧約聖書の民であり、約束の民であり、聖書を知っていて、自分たちが神の民であるという自己意識をしっかりもっていました。だから、力ある働きをしているパウロを見て、自分たちが偽物のようでパウロが輝いて見えたのでしょう。

 妬みから、パウロの邪魔をしてしまうということが度々おこりました。

 アンティオキアというエルサレムから北へ400キロ以上も離れた場所に教会ができていました。パウロたちが伝道旅行に出発した場所です。はじめは、迫害の手がクリスチャンの手に及んだので各地に皆が逃げて散らばった、そんな場所でしかありませんでした。しかし、伝道の拠点となっていました。

 ここにエルサレムからユダヤ人のクリスチャンたちがきていました。彼らはイエス様がメシアであると信じていました。

 しかし、異邦人も割礼を受けなければいけないと主張していました。異邦人もユダヤの民の中に入って来るべきだと主張していました。神を信じ旧約聖書の律法通りに生きるようにならなければ救われないと主張したのです。しかし、もともと全く別の文化で成長してきた異邦人にとっては律法をその言葉のまま守り切ることはできることではありません。

 というよりもユダヤの民だって厳密に言えば完全に守りきれている人はいないのです。

 そもそも、救いの出来事が起こっているのは、民が律法を実行できたからではありません。実はこのポイントこそ大事なところだったのです。ガラテヤの信徒への手紙3:2。

 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。

 福音を聞いて信じたから“霊”が下りました。神の行動があり、それに応答するから物事が起こるわけですね。人間が先ではありません。人間の行動が、律法の実行が先ではありません。神の言葉に応えて、人々が信仰し、信仰に働いてものごとが起こりました。

 先程の歩けない人が歩くができるようになったのも、パウロがキリストの思いに寄り添い、その信仰に神が働いてくださったから起こった出来事です。足が萎えた人がなにか律法に記されている善行を積んだからでは全くありません。

 善行も何もつまないうちから主は信仰に応えてくださって、彼の足を癒やしてくださったのです。信仰がなければ何も起こりません。しかし、信仰があれば神によって物事が起こされていきます。

 律法を守っていなかった異邦人の上に聖霊がくだりました。それが使徒10:44〜47に記されています。

 ペトロがこれらのことをなお話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を讃美しているのを、聞いたからである。

 信仰に生きてこなかった異邦人が神に自らの舌を委ねきって異言の祈りをし、神がすべての中心であり、神のことだけを思い続ける讃美をささげつづけることができました。信仰に生きることができなかった異邦人が、全く変えられて、神を讃美している。だから、その人々が聖霊に促されていることを理解できたわけです。

 割礼を受けたからこのように霊の働きが現れてきたわけではなくて、神の霊に打たれて信仰に至ったから主がここにご自分の働きを展開してくださると理解できていたわけですね。神の霊の働きというのは恐ろしいものです。

 全く人を変えることがおできになられます。

 アンティオキアのパウロとバルナバ、エルサレムの教会。この2つの教会の間で、ユダヤの律法を守ることをすすめるのか、いや、聖霊による恵みなのかという議論が立ち上ってきました。そこでペトロは証言します。使徒15:8、9。

 人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした。

 神の霊が与えられて、信仰が起こされて、もう起るべくして起こる出来事が異邦人に中で起こってしまっている。これは、ユダヤ人として整えられたからというわけではない。それは使徒15:11。

 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。

 恵みによって救われると信じ、受け入れるとそのとおりになる。確かに神の国がここにきているという証が立ち始める。それをなにか人間の行動によってしようとするのではなくて、ただ受け入れるだけ。それによって神の国がくる。

 イエス様がこのように言われた通りです。マルコによる福音書10:15。

 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。

 子どもというのは、聖書の中では純粋な存在というよりも弱さの極みにあるものというニュアンスが強いと思います。弱さの極みにあって、自分で生きることができずに、ただただ与えられるものを受け入れるしかない。福音が異邦人に対しても何の区別も差別もなく、広められていったのは、イエス様のこの心によるものです。

 心を開いて受け入れるものは誰であれ、弱さの極みの中にあるものでも、何もできなくても、律法を実行することが全くできなくても、それでも神によって世界が開かれるのだということです。

 おそろしい恵みの時代がはじまっています。心を開いて神にこころを常に向け続けるならば、主は応えてくださる時代です。十字架の血によって赦しの時代が到来しているからです。問題はただ、わたしたちが心を開いていなかったということです。主への思い以外のことで心が塞がれていませんか。どうか一日10分でも十字架の主の前に来て、十字架の主の心に触れてください。

 やっと自分の信仰生活の問題がわかってきた気がします。それは常にご一緒してくださっている聖霊。信仰を通して働かれる聖霊。聖霊がおられなければ主イエスを主だと告白できないという、うちにやってきてくださった聖霊。このお方がスグ近くにおられると思うことができなかったことですね。神の国がそこにあるのに、それよりも、別のなにかをつねに探して追い求めてきたことが問題でした。

 ユダヤの民にも、異邦人にもすべての人が心をひらくならば聖霊がお入りくださり、お働きくださるのですね。それを拒んでいたのは自分だったと気づきました。主と共にこれから一生歩める確信が与えられて幸いですが。この幸いをすべての人にと願います。アーメン。