イザヤ書9章:1〜6 「闇に光」

石井和典 牧師

 ガリラヤはパレスチナの最北に位置します。この地は昔からアッシリアやバビロンがパレスチナに侵攻してくる時に、真っ先に踏み潰されてしまう場所でありました。だから繁栄して発展することができずに、暗闇の支配する危険地帯と考えられていました。

 預言者イザヤは神から言葉をいただいて、しかし、そのような場所をあえて神は選ばれてメシアが誕生してくると預言したのでした。

 政治や経済、宗教の中心地のユダのエルサレムではなくて、異邦人のガリラヤとさえ呼ばれてしまう場所において、メシアであるキリストは成長なさいました。

 闇に光が満ちることを主はお望みであることがわかります。

 主はその闇に満ちたところに住むものの友となってくださいました。

 危険地帯であるガリラヤにキリストがお育ちになる場所が指定されました。あえて主はその場所を選ばれたのだということを黙想する必要があります。苦しみに満ちた地、暴力の犠牲となってきた地、中心のユダの人々からは蔑まれた地。これをもって神様がどのような場所や人のところにご自身を現してくださるのかがわかります。

 闇を感じざるを得ない場所に光を投じる。それが主の思いです。御心であり、主の業です。

 メシアは一人の小さな赤ん坊としてお生まれになられました。しかし、この方の肩に主権があります。イザヤ書9:5。

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

 権威が彼の肩にある。

 その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 小さな一人の赤ちゃんとしてお生まれになられた。弱さを身にまとっておられます。赤ん坊ですから、だれでも親しく関わることができる。何か壁があるわけではない。どんな人をも迎え入れて、関係性を神が築いてくださるのだということがわかります。

 赤ん坊を抱っこするとき、親しさがそこに生まれます。体温を感じ、匂いも息遣いも感じます。赤ちゃんを抱っこさせていただけるだけで幸いだという世界がありますね。

 神様は、赤ん坊をこの世にお送りくださったのです。私達と親しく交わるためにこの世に独り子を遣わされたのがわかります。

 誰とも壁を作らないのが主イエスであることがわかりますね。

 しかも、この御方は記されているように「わたしたちのために」与えられるのです。神は信仰から離れていってしまう民を放置することができずに、独り子をお送りになられた。それは独り子をお送りになられて、人々を信仰に立ち返らせるためですね。イザヤの預言が与えられた時、それ以降の王国はだんだんと偶像礼拝に入っていってしまいます。そして国が崩壊します。聖書は、国が崩壊するのは「偶像崇拝による」とはっきりと結論づけています。

 神を離れたから国が崩壊したというのです。もうダメに完全になってしまうのではないかという時に、信仰そのもの、光である主イエスを世にお送りになられて、目の前に真理を見て人々が立ち返ってくる道を主はおつけになられたといことですね。「わたしたちのために」というこの一言が非常に重要です。神の愛がこのわたしたちのために向かっている。心を開いて聞こうとしている人すべてにとって、この聖書が非常に尊い言葉として響くのです。

 「権威は彼の肩にあり」です。あらゆる主権がメシアである主イエスのもとにあります。主イエスはご自身でおっしゃられました。マタイによる福音書28:18。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 ある部分の支配権をもっているというわけではありません。天と地の「一切の権能」がキリストのところにあります。だから、私たちはこの御方を礼拝し、この御方に聞いて、従う必要があります。この御方以外の言葉にいかに惑わされていることでしょうか。自分の思いや、人の声の誘惑にいかに弱くつまずくことでしょうか。なぜそうなるのか。それは、この御方に「一切の権能が授けられている」という本日与えられた御言葉のもとに立たないからです。

 この御方に権威があり、この御方が力をもっておられ、この御方のところに来ますと、三位一体の主の名によって洗い清めを受けて、主が常にそばにおられることがよく分かるようになるのです。聖霊のご臨在によって、あらゆる天の祝福が内側に流れてくるのを体験します。問題はなにかといえば、この御方のところに来ないことです。他に権威を認めてしまっているのです。すなわち、偶像に心が向かってしまって、力のないものを頼りとしてしまうのです。偶像はお金や力、人間。権力、名声。その他もろもろ。なんでも偶像になりえます。石ころでさえ。それが、神から私達を離れさせるものです。

 主との交わりというのは、いつもいつでもどこでも共におられるという交わりです。

 赤ん坊がこの胸に抱っこされているように、つねに慕わしい対話の中に入っていくことができます。その御方に権威がある。それが聖霊なる神のご臨在ですね。

 本日の預言はこの御方が勝利してくださるという預言です。

 その勝利はミディアンの日のようになると。ミディアンの日というのは、士師記6章以下の神の霊が注がれた男ギデオン、その軍勢とミディアン人との戦いのことです。敵の総数は士師記を見て計算してみると、13万5千人です。かたやギデオンの軍勢ははじめは3万2千です。この段階で勝利に対する疑いが湧いて来そうですが、ギデオンには主の霊が宿っていました。戦いは数の問題ではないことを主はお見せくださいました。最終的には、ギデオンの軍勢は兵を減らしていって、300人で戦うことになりましたが、彼らは不思議にも勝利することができました。真正面から戦うというのではなくて、松明と角笛、水瓶が彼らの武器でした。水瓶を割りながら角笛を吹き、松明の火で敵陣を囲むと、敵は同士討ちをはじめました。

 絶対的劣勢、圧倒的敗北。そんなことが人間の目からすると考えざるをえないところで主は、不思議にも勝利を与えてくださいました。5節に記されている通りのことをその時の民も経験したのです。イザヤ書9:5。

 「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」

 驚くべき方法をもって、不思議な方法をもって、その力が神から来たということが、信じるものたちには明らかになって、讃美から讃美の大合唱を生み出し。それゆえ、永遠の世界につながっていることを、神の力につながっていることを見出し、人々はシャロームで満たされる。シャロームは平和、完全、健康というような意味ですね。

 みどりごが与えられるということは、私達のうちにシャロームが、完全が、肉の健康のみではなくて、まことに人としての健康がこの内側にいだきとめられるということです。健康とか完全というのは、実はこのひとりのみどりごをこの腕に抱き留める。メシアを受け入れるということであったのです。

 キリストを受け止めて、一人の人がよみがえり、神の御言葉を悟り、新しい歩みを始めるということに、実は国の存亡がかかっている。ひとり子がひとりの人のところに受け止められるかどうかに、ミディアンの日の勝利がかかっているのです。

 圧倒的劣勢であろうが、なんであろうが、それをはねのけて勝利することができる主を迎え入れるかどうかなのです。イザヤ書9:6。

 ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない。

 ダビデの王座というのは、イエス様はダビデの末裔だからこのように表現されている預言の言葉ですね。主の権威が神の国に増して、平和がそこにあふれてきます。主イエスのちからを人々は存分に味わって、そこに平和があふれてくるのですね。全世界のキリスト者たちの心が神の国。神の国においてこの平和を味わうことができるのですね。一人のみどりごを受け入れることによって。

 王国と正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 闇に光、負けそうな戦いにも勝利、ひとりのみどりごを受け入れることで、国さえ立あがり、復活の狼煙が上げられる。

 確かに、十字架と復活の福音を受け入れた人たちによって、世界は変えられて来ましたし、これからも変えられていきます。万軍の主の熱意がこれを成し遂げます。

 万軍の主の熱意。熱意というのはねたみとも訳せる言葉です。偶像の方にいってしまうことを主はゆるせないのですね。それは真の父だからです。人々が親のもとに帰ってきて、この主の御国の囲いの中に帰ってきてほしい、そのためにねたむ愛をもって、他のところに人がいくたびにねたみを持たれて、主キリストの国に帰ってくるようにと人々を集められている。その熱意が必ず、主の御国をつくりあげる。

 立ち返りますと、つぎつぎと主の御業を発見します。立ち返るだけですね。勇気をもって、瞬間、瞬間立ち返りましょう。主の御業が見えてきます。アーメン。