マタイによる福音書1章1〜17節 「救いの系図」

石井和典 牧師

 クリスマス物語に記されている聖書の言葉、一つ一つにすべて意味があるし、そこに神のご臨在。これこそが神、これこそが光、光り輝く書であると言える内容が含まれています。

 なぜこのマタイ福音書のはじめの系図が光り輝いて見えるのか。その理由についてご一緒に見てまいりたいと思います。イエス様のお誕生をお祝いするこの時にこそ、皆様に読んでいただきたい。

 とにかく、この41人もの人の名前が記されているということは、これがまず重要であり、「これを読まなければはじまらない」ということをマタイが言いたかったということを受け止めてください。

 なぜはじめにまず系図を書かなければならなかったのかという理由は1章1節で説明されております。

 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

 ナザレのイエスこそが、信仰の父であるアブラハムの子、であると言いたいのです。このアブラハムこそが、神様と約束を交わして、その信仰がただしいと認められた人であり、この人が「信仰のみによって神の前でただしいものとされる」ということを教えてくれた人です。創世記15:6。この御言葉が決定的に重要であることを忘れないでください。

 アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義とみとめられた。

 クリスチャンが今こうやってここに、異邦人でありながらも、信仰のみによって神の子として存在する。その根拠となる御言葉です。

 異邦人であったとしても、信仰が与えられた人は、アブラハムの子であるのだ。すなわち神の民なのだいうことを指し示すための系図だ。とマタイ福音書のはじめで言っているということです。その証拠の系図の中に異邦人も入ってきます。

 また、ユダヤの国を最初に統一したダビデという偉大な王の末裔であることがここに記されています。イエス・キリストが誕生する以前から、メシア救い主が生まれるとするのならば、ダビデの系図がから生まれるはずであることを預言者イザヤが語っておりまして、そのことを皆が信じていたのです。

 その「かねてから言われていた預言」がこのイエスという人物を通してついに成ったのだ。それを言いたいわけですこの系図は。先週共に読みましたイザヤ書9:5〜6がメシア預言です。

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 力ある神そのものであられる方が、ダビデの末裔から生まれてくる。

 しかし、そこまでは良いのですが、なぜこういった書き方をあえてしたのか。と問いたくなってしまうところがこの系図の中には多々あります。聖書を読んで慣れ親しめば親しむ程に、この系図が聖なる系図であるとは手放しで言えなくなってしまうところがあるということです。

 ユダヤの系図のしるし方は、つぎつぎと父の名をつらねていくはずなのです。しかし、この系図には、女性の名前が出て来ています。しかも、女性の名前をあげるにしろ、どうしてこの四人をあえて選んでしまったのだ、というような人たちの名前だけがあえて選ばれて記されています。家系図というのは、日本においても、できるだけきれいな問題のない人の名を選んで残し、改変が行われたりするものです。

 特に近代以前はそういう傾向が強くて、とにかく自分の家系に問題のあった人がいた場合はそういう人は見えないようにしてしまうということが、全世界的な傾向でした。

 問題はマタイ福音書に記されている4人の人は、ユダヤ的な伝統からすれば、できれば載せないほうが良いという人たちでしかないということなのです。

 ある意味、汚点とまで言える人たちです。その人達をあえて載せた。そのことに大きな意味があるわけです。

 4人の女性の名前は、1章3節には、タマル。1章5節にはラハブ。同じくルツ。そして、6節のウリヤの妻と記されていますが、これはバト・シェバです。

 タマルという人は遊女を装って舅(しゅうと)をそそのかして姦通した女です。ラハブという人はエリコという町の遊女でした。ルツという人は貞淑な素晴らしい女性でありましたが、民族の血統を重んじるユダヤ人の社会では、「異邦人」であり、ユダヤ社会では公の場に出ることはできない人でした。

 バト・シェバという人はもう最悪と言っていいぐらいです。ご主人のウリヤという人が出征中にダビデ王と不倫関係になってダビデの子をやどしました。ダビデ王はこのバト・シェバを娶るためにウリヤを危険な場所に出陣させて殺します。始めの姦通によってできた子は死にますが、その後このバト・シェバを母としてソロモン王が生まれました。

 さらに、いうなれば、聖霊によって身ごもったというマリアも、第三者的に、信仰無しにみてしまったら、怪しい女となりうる。そういう状態でありましょう。

 マタイによる福音書1章18節にはこう書かれています。

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフはただしい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、密かに縁を切ろうと決心した。

 ただしい人ヨセフがマリアの最善を考えて、縁を切った方がよりベターだと判断できるような状況でもあったわけです。

 キリストの系図というのはまるで悪意のある人が、キリストを辱めようとして書いたような系図である、とも言えてしまう系図です。しかし、マタイが言いたいことというのはまさにそこなのです。

 キリストは、世に降って下さったということです。決してきれいで神々しく、清らかな中にお生まれになったというわけではない。家畜小屋の飼い葉桶にお生まれくださったのです。いうなれば、忌まわしい罪人の血統と言えてしまう中からイエス・キリストはお生まれになられたということです。

 処女マリアは、聖霊に満たされてイエスを産んだ。どんな悪評がたてられてしまっても、神はどんなところからでもイエス・キリストを誕生させることができるのだ。どんなしがらみを破ってでも、そこに神の業が起こるのだ。

 どんな人間の世の中にも神の業は起こり得るのだと聖書を記した人は言いたいのです。

 どんなところにも神の業が。

そのように考えますと、私達の口から不平不満の一切が取り去られます。

 環境が最悪でも問題はありません。そこに神の業が起こるからです。

 イエス様の先駆者、道をつくるもの、洗礼者ヨハネという人が言ったことはまことにそのとおりなのです。洗礼者ヨハネは不信仰な人々に対してこう言いました。マタイによる福音書3章7節。

 蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

 洗礼者ヨハネ、イエス様の先に道を造ってくれた人。この人は、こういったに等しいのです「人の系図など関係ない。」「地縁血縁など関係ない。」

 そんなものを破ってでも神は御業を行うことができるのだとはっきりと言っているのです。これこそが福音です。

 環境が最悪でも問題ありません。そこに神の業が起こるからです。

 どんな罪にまみれた人間であったとしても、どんな家柄であっても、どんな運命を背負っていても、聖霊の油注ぎを受ければ、神の子として生きることができるのだとハッキリと言い切っているのです。聖霊の満たしを受ければ、神の子として生きる。これを体験していったのがイエス様の弟子たちでありました。聖霊に触れると変化してしまって神の子として歩みだしたのです。

 

 イエス様のご生涯は、客観的にみれば、非常に貧しいものでありました。泊まる場所もなく、家畜小屋でお生まれになられました。無学なナザレの大工です。伝道しながら旅をして人々から迫害を受け、迫害につぐ迫害で逃げ惑い、最後は十字架にかかって死刑囚として死ぬのです。すべての人から捨てられてしまった。これは考えてみれば私たち以下の悲惨な生活でしかないでしょう。

 しかし、私たちはキリストの前に跪いています。この方のために自分を投げ出したい。今や全世界から仰がれて神の子イエスと言われている。神として崇められています。悲惨な現実の只中にキリストは誕生してくださるのです。これが福音なのです。

 だから!イエス様の系図にはわざと姦通の女が記されているのです。重大な意図がそこにあります。

 タマル。遊女であったラハブ。夫と死別して涙するルツ。ダビデ王に夫を殺されて嘆くバト・シェバ。

 彼女たちは恵まれた結婚生活をしたのではありません。

 しかし、この涙する女性たちを通して神はキリストをこの世に誕生させられたのです。

 もう、自分自身を諦める必要はこの世界のどこにも一切ありません。

 どんな境遇を抱えていても、神の光は人間の過去も未来も変える力を持っています。

 石ころからアブラハムの子たちを作ることさえできる。

 どんなに人からダメだと言われようが全く関係ありません。

 神の霊が注がれれば、人は変わるのです。

 このことを示すイエス・キリストの系図にこそ命がある。

 絶対に諦めてはいけないという光がある。

 このキリストの命を受け取って、神の栄光をいただいて生きたいと思います。アーメン。