マタイによる福音書1:18〜25 「インマヌエル」

石井和典 牧師

 「神は我々と共におられる。」というこの一言で人は復活できます。造り主である神です。三位一体の教理を教会は伝え続けていますが、これはあまりにも偉大すぎるほどに偉大なる教理です。御子が来られたということは、父なる神が来られたということでもあり、聖霊が私達のところにも来られたということでもあります。

 キリストがおられるということは、「創造主である神」が共におられるということ。クリスチャンというのは恐ろしいですね。そのお方とホットラインである祈りでつながってしまっているわけですから。常に、その御方との対話の中に入れられている。

 マタイ福音書が初めの1:23で。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 と語り、その最後でまた同じことを語ったこと。このことこそが重要です。結論の言葉が以下の言葉です。28:20。

 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 その前にかかれていることも非常に重要です。

 わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

 マタイ福音書の中に記されている主が教えてくださったことをすべて守るものたちが弟子であり。その弟子と主はご一緒してくださると宣言されています。

 イエス様のおっしゃられたことに従うものたちはすべて弟子と呼べるわけですが、弟子たちというのは、皆それぞれ非常に大きな試練に直面していくということもわかってきます。ヨセフも主に従った人でありました。しかし、彼にも大きな試練が待ち受けていました。

 それは主イエスを迎え入れるという試練です。主イエスを迎え入れることがどうして試練なのか。イエス様を迎え入れるということは、マリアを迎え入れるということであり。マリアを迎え入れるということは、信仰によって「自分のうちに聖霊がやどり子供を宿したということを信じる」ということでありました。1:19に記されているとおり。この状況というのは試練でした。

 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

 婚約中のマリアと縁を切るなどということはありえないことで、ヨセフにとっては期待していた明るい将来を潰すということを意味していました。それだけ大きな決断をして、その結果マリアの命を守るという選択をしなければならないと思ったのです。ヨセフは愛に満たされていた人でしたから、マリアにとっての最善を願いました。問題が大きくならないように、マリアを守るために決断しようとしていたということです。

 ということは、これが不貞によるものであるとほとんど確信しながら、そう思わざるを得ないような状況であったということですね。

 子供を宿すということは、男女の性的な関係がなければ起こらないわけですから。当然の判断だったろうと思います。しかし、その出来事に大きな飛躍が起こる。そこに神の業が起こる。マリアの懐妊は「聖霊によって身ごもった」出来事であるとの知らせを受けるのです。

 神様と出会うということは、「今までこうだと思っていた出来事に大きな跳躍、飛躍が起こってくる出来事」となります。

 「こうだ」と思っていたことの別次元の見方、飛躍、天がそこに入ってくるわけです。

 信仰の目が開かれたら、一体どんなことが起こるんだろうと、すべての人に思える世界が信仰の世界です。

 信仰によって見なかったら、どうなるかというと、滅びの方向ばかりを見ることになります。自分にとっても他者にとっても、跳躍も飛躍もない、神の目もない、その人にとっての現実から見て落ちていくような姿ばかりが目についてしまう。能力や家柄や財産や持っているものでしか勝負できない世界になってしまいます。

 しかし、神の介入があると一変してしまうのです。

 滅びに向かうような出来事にしか見えなかったこと。もう人生終わりだと思えた出来事が、そこから飛躍する、跳躍して、天がそこに現れる出来事になっていく。福音書に書かれているイエス様のご命令や言葉、神様の言葉に従ったときに、必ずそのような歩みとなっていくことを、ここに登場するすべての人に見ることができます。別次元の天が開かれているのですね。

 すべての人達の中に、このような視点を持っているクリスチャンの周りにはどうやったって人が集まるはずです。批判するのでもなく、悪いところを裁いて切り捨てるのではなくて、その人の中に神の業が起こり得ることを信じて、一緒に信じましょうと呼びかける民ですから。そこに絶大なる希望が生まれ始めるからです。

 イエス様の周りには罪人と呼ばれる人たちが集まってきました。居心地が良かったのでしょう。それもそのはずです。多くの人が彼らを見捨てて、見限って、裁き、切り捨てていたのに、イエス様は神の業をそこに見て、新しい人生が切り開かれていくことを、彼らに見せ、癒やし、教えて、弟子としていったのですから。

 聖書を知っている、正しい生活をしていると思って人を裁き、自分の正しさを主張して、人を落とすことを考えていた人々は、イエス様のもとを離れました。イエス様ご自身も非常に強い語調で批判されました。このようにイエス様は言われました。マタイ7:1。

 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

 人をどのように見ているかということが、結局その人が何を見ているかを現しており、その見ている通りの人生になっていきます。人を裁いている人は、その裁く量りで量り与えられてそのような裁かれる人生になっていくということです。主の業を見ることはできません。

 人のことを評価しているようで、実は自分の視野の狭さ、不信仰を露呈しているということに気づく必要があります。

 ヨセフの人生を見ていると、このヨセフが見ようとしていたものに主がお応えくださっています。マリアを心から愛しているということに神が応えてくださって、神様の業をお見せくださっていることがわかります。

 どのように見るのか、どのように裁くのか、その人を見る視点で自分もはかりあたえられるのです。間違いありません。だから、何をみているかに注意する必要があります。

 思わぬ自体に直面して、しかし、しっかりとがっぷり四つ、神様の言葉を受け止めているヨセフの姿。ここに神の祝福が注がれるであろうことを見ることができますね。神の言葉をヨセフは見ています。

 一見この世の不条理のように見えるようなできごとに直面していても、そこで神の言葉を受け取って、神の言葉と向き合っているひとはやがて主の御言葉が実現していくさまを見ることになります。

 「神は我々と共におられる」ということを聞いたヨセフは、これがマタイ福音書の最後まで、いやその後の次の世代にも貫徹されていくさまを見ることとになりました。

 「神は我々と共におられる」ということを経験しているのは、この時代の人達だけではありませんね。後の世の教会もです。

 ヨセフにとっては結婚生活の中においても、また、イエス様と一緒に歩むその中においても、イエス様が十字架にかけられてしまうときにも、そのあとの弟子たちの活躍を見ても、そのすべてのすべて、人生のあらゆる領域に彼は「神は我々と共におられる」ということが貫徹されて、実現されていくさまを見たのです。それは彼が信じて見ようとしたらか見えてきた世界です。

 本日の箇所でとりわけ重要なのがイザヤ書7:14の引用です。23節からのところですが。これは、アハズ王の時代に北からシリアやエフライムが攻めてくることに対する預言でした。敗北がそこにあるのではないかと考えざるを得ない状況において、若い女性から男の子が生まれて、まだ善悪も判断できないような年齢のうちに、攻めてきた他国の王たちは失脚するという、驚くべき救いについて語られた預言でありました。

 ここに新しい理解を見出して。このイザヤの預言に、マタイはイエス様とマリアを見出して受け止めていきました。

 聖書の御言葉が新しい光を受けて、受け止められて、それがこの共同体を造り、また動かし、そして、マタイ福音書の最後の結論の言葉として、「神は我々と共におられる」という言葉が響き始めていたということです。

 御言葉には力があります。光を放ちはじめます。力を持ち始めます。人生を根底からかえはじめます。そして、神を体験させるのです。

 ここに書かれている内容が、皆様の人生の中に適用されて、光を放ちはじめ、皆様の人生を変えて、神が共におられるというできごとに変えて、驚くべき証をここに打ち立てる可能性が十二分にある。

 十字架の主の血潮にあずかって聖霊を受けるということの恐ろしいほど大きな価値がここにあります。聖霊を受けてしまったら、人生の中にキリストが誕生し。キリストの言葉によって歩み、キリストの支配をうければ、恵みから恵みの歩みを始めるのです。

 ヨセフにとってマリアと離縁せねばという、信仰がなかったらあまりにも暗い結末は、飛躍が与えられて、天とつながり、神の言葉とつながってしまったのでした。このような飛躍が、暗い闇からの跳躍が皆様の人生の中にも起こります。それを受け止めてください。もう人を裁く必要もありません。自分の人生の中に主がおられることを見れば、そのはかりにしたがってはかり与えられます。見ようとすれば見えてきます。アーメン。