マタイによる福音書2:1〜12 「ひれ伏す幸い」

石井和典 牧師

 ユダヤの王であるヘロデと占星術の学者。両者のイエス様に対する態度の違いに注目してください。王は恐れに囚われて、不安にかられて、子どもたちを皆殺しにしてしまおうとします。攻撃的、暴力的です。しかし、学者たちはただ喜びに満たされました。

 「皆殺し」と「喜び」です。恐ろしいほどの明暗ですね。この違いに注目してください。皆様の人生の中で、多かれ少なかれ、主に対してどのような態度をお取りになられるのかによって、このような明暗がハッキリしてきてしまう瞬間が訪れるのだということを知ってください。

 真の権威者が現れた、それがメシア誕生の知らせです。だから、占星術の学者たちは「黄金」「乳香」「没薬」を捧げたのです。

 「黄金」は当時の社会では王を象徴するものです。それは王にささげるものでした。だから、キリストに黄金をお捧げするということは、この御方が真の王であることを表明する内容でした。

 「乳香」は祭司が使うものです。神と人とを結びつけるのが祭司の役割です。イエス様が、完全な大祭司であられることを指し示すものです。イエス様のところに行けば、そこに天が開けている。神様との出会いがある。そのように期待していた占星術の学者たちのこころが伝わってきます。

 そして、「没薬」です。これも高価なものでしたが、その多くが死者を葬る時に使われるものでした。イエス様は、私達人類のために死なれるわけですが、そのことを知ってかしらずか、学者たちは、イエス様に没薬を贈りました。

 後の私達にとっては、この3つの贈りものが、イエス様のお姿を指し示すものとなっているということがわかります。

 黄金、王。乳香、祭司。没薬、死。

 真の救い主が、王がここに、大祭司キリストが、十字架で贖罪を達成される、神の子羊が 、ここに誕生された。

 そのメシアを喜び迎えるもの。殺そうと考えるもの。

 

 喜び迎えるものは、その王にひざまずこうと思っているから喜べるのです。自分の思いを捨てて、ただこのメシアに従おうと考えているから、ただただ権威者であるメシアがやってくることを喜ぶのです。

 しかし、逆に、自分の権威を主張しようと思っているものにとって、自分の考えを捨てて従おうと考えないものにとって、真の権威がやってくるというのは恐怖以外のなにものでもありません。

 ひざまづいて、自分を捨てて迎え入れるものは、喜びに満たされますが。自分の権威を主張し、自分を捨てないものは、その手に暴力の道具を握ることになります。目に見える暴力だけでなく、言葉によるものも武器になります。

 攻撃して、自分が潰されてしまうまえに潰してしまえという発想です。

 当時のユダヤの王ヘロデは非常に心の貧しい状態にありました。王位が狙われるのではないかという疑心暗鬼に囚われていたからです。というのも、エドム人の末裔としてすなわち異邦人の末裔としてユダの民から蔑まれていました。ユダヤの民からは、異邦人の王と揶揄されるような状態です。

 彼はまずローマ帝国の傀儡として王となっていました。

 ユダヤの王なのですが、ローマに肩入れする人間として、ユダヤの王でありながら、ユダヤの民から嫌われていました。

 非常に体が小さかったようで、そのせいか、大きな建物を作るのが彼の生業となり、マサダの要塞や、第二神殿の改修などにとりかかって建物を建造していったのです。現在のイスラエルの嘆きの壁は彼の改修によるものであると言われています。

 しかし、疑心暗鬼にかられて、自分の子供をつぎつぎに殺害し、妻も殺してしまった王でありました。

 そんな彼の胸中を察するに、いつ自分が握りつぶされてしまうかもわからない不安感と劣等感との戦いの中にあったことが推測されます。

 すべてを投げ捨てるようにして、ただメシアの御前にひざまずくことができたなら。小さなものを高く高く引き上げるお方が神であられると知ったらならば。。。小さなものを抹殺することなどなかったろうにと思います。しかし、一度暴力に身を染めてしまったものが、そこから立ちなおることはできなかったようです。イエス様誕生の知らせを聞くと、イエス様を抹殺するために、国中の幼子を虐殺していきます。

 預言書の中で、主は小さなものにこそお働きくださるのだということがわかります。

 本日のところに引用されています。マタイ福音書2:6をご覧ください。

 ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さなものではない。

 この引用はミカ書という預言書の引用なのですが。ミカ書にはこのように記されています。ミカ書5:1。

 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。/彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

 マタイによる福音書は、このミカ書を引用しているのですが。少し変化しているところがあります。内容がほとんど変わらずに、しっかり受け継がれて、しかしある程度変化が加えられて引用されるということが聖書には結構あります。そういった引用がなされる場合、そこには、信仰者たちの信仰が入り込んでいると見ることができるのです。

 よく見てください。少し違います。「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」から、「お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さなものではない。」になっているのがわりますか。

 ここには、神様が小さな民であるベツレヘムの町の民に対して、その小さな民を小さな民としては扱われないという「絶大に大きな主張」が入っているのがわかりますか。

 人々がベツレヘムのことを小さな町と言おうが、主はそのようにお考えではない!ということです。ベツレヘムは、決して小さな民ではない!ベツレヘムよ。 

 ヘロデ王によって握りつぶされてしまうような子供から、小さな民から、そこから偉大なる主の御業がはじめられていくのだということです。

 だから、小さなものと扱われてしまっているものたちよ、あなたがたは神のみ前では小さなものではない!そのようなマタイ福音書の叫びをここから聞き取ってください。

 

 マリアの讃歌を思い起こします。ルカ福音書1:47。

 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。

 はしためというのは、端の女と書いて端女と読みます。召使いの身分の低い女性のことをさします。そのような人々には端としか覚えられない人を、主は高く高くあげてくださるのだといことです。

 羊飼いにも知らせが届けられましたが、彼らは辺境に住まう、周辺の民。中心ではなくて端の民だったのです。その人を主は覚えてくださっていたということなのです。ダビデ王もそうですね、大事なお客様を接待するときに、その場所に父親から呼ばれることはない、「端の」末っ子だったわけですね。その人をこそ主が用いられて国を建て上げられました。

 だからこそ、聖書の中で信仰深い人々、主に愛されている人々は、自分のことを僕とか、主の奴隷とか、端女とかあえて大きな声で言うことができたのですね。

 そのような人々を高く上げる主であることを知っているからです!

 小さな小さな幼子のもとに、人々から阻害された、捨てられた、差別を受けた、そういう人々が集まってきて、小さな幼子よりももっと低くひれ伏し、幼子に忠誠を献げ、喜びを献げ、従い、従順にさせられていくところに神の光が輝きだしてきて、世界に光が広がっていってしまうのですね。

 すべての人にとって輝きの瞬間というのは、もう準備されていることがわかります。

 御子の御もとに来て、自分の権勢や、権威や、力や、能力や財力や、そういった自分が持っていると思いこんでいるものを、全部捨て去って、なんにも持たない「素」の姿になって、ただひたすらに、主にひれ伏す人に、主の光が与えられて主の光によって照らされた歩みが与えられていきます。

 例外はありません。

 どんなに人々が主イエスのご家庭について悪口をいいつつも噂しようが、マリアには確信があったことがわかります。それは「今から後、いつの世の人々も/わたしを幸いな者と言うでしょう。」という確信です。

 主イエスのところに導かれた占星術の学者たちも、財産をそこにささげるほどに!「黄金」「乳香」「没薬」をささげるほどに!自分の人生のすべてを投入し、喜び、幸いに満たされていました。

 ユダヤの民から差別されている端の自分たちを主だけは覚えてくださると知ったからです。

 

 クリスマスっていうのはすごいですね。すべての人が、素にもどって、自分が神様に覚えられていたんだということを痛いほどに味わって、人々から蔑まれていても、端女よと言われても、諦められていても、そこに喜びがあるとはっきりと味わうことができるときなんですね。

 僕です。主の端女です。奴隷です。主の御前でこのように言えることに喜びを感じる。主が高く挙げてくださるからです。主の奴隷としてひざまずくそこに、天の光が輝きます。アーメン。