マタイによる福音書 2:13〜23 「預言の実現」

石井和典 牧師

 キリストに忠誠のすべてをささげた、占星術の学者たちは不思議と守られます。ヘロデ王がその手を伸ばしてもそれは届きません。いかに強大な魔の手が迫っていようが守られます。神が守られるからです。マタイ2:12を見てください。

 ところが「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 もしヘロデのところへ帰ったら、メシアの居場所が明らかになってしまい、ヘロデはおそらくメシアに手をかけたことでしょう。と、同時に、この学者たちの命もどうなっていたのかわかりません。何しろ疑心暗鬼に駆られて、家族をつぎつぎと手にかけてしまうような王ですから。

 しかし、正しいことを行うものには、神は導きを常に与えて続けて、逃れる道をご準備くださっているのがわかります。赤ん坊であるキリストの前に、「黄金」「乳香」「没薬」をささげた彼らの行為は、その行為自体が主に祝福されたものでありながら、彼らにキリストこそが、王であり、祭司であり、贖い主であることを確信させました。

 彼らの人生はこの後に変化したに違いありません。

 神様が夢によって語ってくださり、それによって命が救われたということを経験すると、全能の父なる神への信仰から離れることはできないでしょう。神が語ってくださり、経験し、恵みを味わいという主との交わりを経験していくのが私達の歩みです。

 信じるものたちに見えるのは、「預言が成就していっている様」です。かつて語られた預言の言葉が、時代も文脈も飛び越えるようにしてまた響き始めるということです。14節に「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」という預言の言葉は、ホセア書11:1に記されていることです。この預言の言葉がヨセフの一家において起こっていると理解しています。ホセア書11:1を見てみましょう。

 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。

 これはいつの時代のことを言っていると思いますか。BC1550年頃の出エジプトのことですね。そこから国が起こるのが、400年後、BC1100年前後です。そして国が崩壊してしまうのがBC600年頃。

 この長い年月の間、神はエジプトから民を救い出して御自身の子として歩ませるという心から少しもずれることはあられません。イスラエルが立ち返るならば、救い出して子とするというところに常に立ち続けられたわけです。国ができてまた崩壊して、また新たに神の民として歩ませるために、イエス・キリストにおいて御自身の業をはじめようとされている。1550年前に語れた預言の言葉が、またあらたに語り直され、1550年後に響きわたっています。

 リフレインして、繰り返されて、こだまして、響き渡っているということです。

 聖書の言葉は何千、何万、何億回とリフレインして、そしてそれをまた味合うのだと受け止めてください。繰り返し読んで、神の心は永遠に変わらないことを知って、神の心の実現を見る。そのような恵みの言葉です。

 クリスマスの内容を歌うということは、その1550年も前の預言の言葉を繰り返すということを意味します。

 クリスマスの賛美歌を歌うということは、この世に響き続けている、神の心を今一度繰り返し、それがまた世界全体に行き渡るまで繰り返し続け、体験しつづけるということをも意味します。

 ヘロデ王によって自由を奪われたヨセフの家族が、神の預言の言葉に従って、エジプトから再び帰ってくるということ。それが本日語られていた預言。そして、引用でしたね。言い換えますと、解放の年が準備されていて、そのことが実現していくそれがイエスにおいて起こっている出来事であったのだということですね。

 そのイエス様に、異邦人である占星術の学者たちはつながることができたのです。異邦人である我々もつながることができたのです。旧約聖書の預言の言葉を全く知りませんでしたが、知って、それをリフレインする、繰り返し唱えて、繰り返し味わうということができるという驚くべき恵みの中に入れられてしまったということですね。やがて預言が真実であったことを現実の世界において味わうようになります。

 預言者エレミヤの言葉が2:18で引用されて行きますが、この預言の言葉はやがて救いにつながっていく預言の言葉として受け止められていきます。2歳以下の子供たちに対する大虐殺がヘロデによって行われてしまっているけれども、この悲劇的な叫びの中から、さらに先に主の救いにつながる出来事が準備されているのだということですね。

 神様は悲しい出来事のあとには、その出来事を補ってあまりあるような、永遠の命につながっていく出来事をご準備くださっています。だから、この神様のお姿をみて、その預言のの言葉に触れていくということだけでも、新しい希望を見ることができます。

 悲しみを経験しているのならば、そこから、神の救いが起こされうるのだということを常にみなければならないということです。絶望は絶望のままに終わらせないのが神様です。マタイによる福音書2:18。これはエレミヤ書31:15の引用です。

 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」

 引用されていうるのはここまでですが。その後にはエレミヤ書31:16にこのように記されています。

 主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。

 さらにこの預言は、31:31につながって行きます。礼拝を今までご一緒してくださったかがたの心にはもう何度も語られつづけています。聖霊が与えられて心に律法が記されるという内容です。エレミヤ書31:33

 しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 どう行動して、何をすべきなのか、主イエスにかかわる人々はそれを幻や夢を通して、また聖霊が宿ることによって示されていきます。驚くべき時代の到来です。主を知るものたちが、心に聖霊によって指図が与えられて、それをもとに動くと神の業を行うようになる。そのような時代が主イエスとともに実際に来ています。

 ここに描かれている占星術の学者たち、羊飼いたち、ヨセフ、マリア、彼らはいわばスーパーヒーローであって特別に神様から選ばれた人たちであるから、聖霊をうけて、神の業を特別におこなったので、私達とは全然違う、そのように言うことのもはやない時代がやってきてしまっている。

 信じるものたちすべてに神の霊が与えられて、神の業が小さな一人の人から起こされる時代になってしまいました。

 神による指図は細部にわたるまでしっかりとだされるということがわかります。マタイ2:20。

 「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」

 いつ、このタイミングでここに行きなさい。そういった細かい指示も出されます。そうすると、聞いた通りの現実が目の前で展開されていくことを知ります。ヘロデが死に、もはやメシアの命を狙うようなものはいなくなっていることを知るのです。御言葉が与えられ、預言の通り、行ってみるとそれを目で見ることになります。

 またナザレという町で住みなさいということも、夢でお告げがあり、さらにそのお告げは預言書にまた基づく内容であったということが記されています。

 聖書というのは単なる古文書ではないことがわかります。神の言葉です。神の言葉は生きて働きます。信じるものたちの心の内で何度も唱えられ、味合われるとそれが、生きて動きだします・新しい理解が与えられ、生きた言葉として響き始める。その言葉の中に自分がすでに巻き込まれてしまっているこということを発見するのです。

 恐ろしい力の犠牲になっているかのようにみえる主イエスの家族、しかし、その家族に神の御手が寄り添い、夢を告げ、導きを与えて、預言に記された言葉が実現するように、すべて神の導きの中にいれられます。神の心が実現されるように用いられていく。

 子供たちの大虐殺が起こり、悲しみくれている民。しかし、やがて聖霊に満たされて神の喜びが内側に満ちて、これまでの悲しみのすべてを主が補ってくださるような喜びの爆発が起こっていきます。

 この悲しみはどうやっても補うことができない。子供がなくなったことに対する正当なあがないなどない。そんなことを人間は考えてしまうものです。しかし、主の視点からすれば、それらはすべて贖うことができる。救うことができる。喜びに変えることさえできる。

 自分で自分の人生に決着を着けてしまわないことです。判断してしまわないことです。主のご計画はまだまだある。主の導きはまだまだある。まだ歴史は終わっていません。預言に記されている内容が、私達の体の中で何度もリフレインされ味わわれ。預言が成就していくさまを見ることになる。

 聖書を読むということは恐ろしいほどにパワーのあることです。ここに記されている喜びが、ここに記されている神の業が、ここに記されている世界の変革が私達の体を通して起こってしまうのです。心を開くものにはそれが味合われます。アーメン。