元旦礼拝 イザヤ書43:19

石井和典 牧師

 かつての悲しみを思い出さなくても良い程に、神が新しいことを行って御自分の力をお見せくださる。民は神の行動を見れば見るほどに励まされて行く。イスラエルが滅び、また復活する。捕囚になった民が回復されて戻ってくる。そのために、かつて神が行ってくださった出エジプトのことを民は忘れてしまうほどに、偉大なる大きな主の御業がなされていく。だからイザヤ書43:18。

 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。

 と記されているのです。神様の御業というのは、どんどん大きく偉大にさらになっていきます。時代と共に大きくなっていきます。

 かつての出エジプトにおいて起こった出来事は、神がエジプトにおいて悲しい思いをしていた民を救い出すために起こった出来事でした。

 モーセの誕生の時に、ヘブライ人はエジプトの王から迫害を受けるようになってしまっていました。主に祝福されて元気な子供が生まれるもんですから、その子供を捨てさせ生きることができないようにさせました。そのエジプトから民を解放することを主はお考えくださいました。

 そこに生まれてきたのがモーセです。モーセの人生も一筋縄では生きませんでした。40歳のときに同胞がエジプト人にいじめられているのを見て、そのエジプト人を殺してしまいました。ミディアンの野に逃げて40年隠居生活をします。

 そして80歳になった時に、解放のリーダーとして立ち上がりました。

 驚くべき主の業が80歳のおじいさんモーセを通して行われていったのです。

 それがイザヤ書43:15からのところに記されている内容です。

 わたしは主、あなたたちの聖なる神/イスラエルの創造主、あなたたちの王。

 主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方

 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず

 灯心のように消え去らせた方。

 モーセにおいて起こったこともありえない奇跡でありました。何度も読み直し、決して忘れることのできない、大逆転を起こしてくださった。ファラオをギャフンと言わせて、弱小の民であったイスラエルが救い出されて約束の地に導かれたのでした。

 しかし、そんなに大きなことがあったのにもかかわらず、それらを忘れてしまうほどの出来事がこれから起ころうとしている。神様の御業はいつもかつてのことを忘れさせる程の大きさと規模と驚きで民に迫ってきます。

 歴史上起こったことを整理して並べていきますと、その御業はつねに末広がりのように大きく規模を増して広がっていっているのがわかります。アブラハムに見せてくださった、星の数、砂の数ほどの子孫が増え広がるということは、その言葉どおり世界中で信仰の民が生まれることによって実現していっています。

 先週の日曜日の御言葉でも確認しました。ホセア書、エレミヤ書の預言が響いて、新しく受け止め直されて、クリスマスに至ったのだと。永遠に変わらない神の御心が旧約から響き続けて、信じる民とともに実現していっているのだということ。

 その時もバビロン捕囚のことが、昔のことが、そのときのこと、現在と重ね合わされていました。預言がイエス様の出来事に重ね合わされて、主イエスにおいて神の心が実現していることを確認しました。

 預言の言葉が実現すると信じていた民には、かつて語れた預言がいまオンタイムで起こる出来事として捉え直されていることがわかりました。

 信じる民にとって預言の言葉というのは、かつて語られ、かつて実現した事柄。しかし、それだけではない。現代においてもその実現を体験し、さらにいえば、未来においてもその実現を見るものとなります。

 というのも、神様の心は永遠に変わらないからです。民を解放し、信じる群れに神の栄光をお見せになり、より大きな御業を見せてくださって、主のお力のすばらしさを私達にお見せくださるのです。だから、イザヤの言葉はかつて響き、かつて実現し、しかし、今も響き、今も実現し、さらにいえば、未来に響き、未来にも実現していく言葉です。

 イザヤ書 43:19。

 見よ、新しいことをわたしは行う。

 今や、それは芽生えている。

 あなたたちはそれを悟らないのか。

 わたしは荒れ野に道を敷き

 砂漠に大河を流れさせる。

 新しいことというのは、当時の民にとってはバビロン捕囚からの解放、国の再建です。その後、主イエスにおいて成し遂げられたことは、十字架によって滅ぼされるべき民の罪が許されて、信仰のみによって義とされた民が生まれるということです。神の民として永遠の命と永遠に住む御国を得たということ、恐ろしく規模が拡大して、全世界に及んでいます。

 さらに、究極的には主がお造りになられる新天新地を目指して歩む歩みがはじめられているということです。

 ヨハネ黙示録21:1以下にこのように記されています。

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。

 「最初の天と最初の地は去って行き」と記されています。今あるこの地も空も、海も去って行くのですね。だからこの地においては、在留外国人、レジデントエイリアンとして生きよと命じられているのですね。そして、また黙示録21:3以下が大事です。

 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

 イザヤ書の言葉は、預言の言葉は、聖書の言葉は、過去、現在、未来へと貫く言葉です。それらが実現していくのですから。この言葉を反芻して繰り返し味わい続ける民は、この神の言葉の内側に巻き込まれ、この言葉を実際に生きる民となるのです。しかも、不思議なことに、ヨハネ黙示録の新天新地の話は、未来の話をしているようでいて、今現在のわたしたちの信仰生活をも指し示すものであることに気付かされます。

 神が私達の内側に聖霊として住んでくださるという約束を教会は信じています。インマヌエルなるお方が、「主は我々と共におられる」とクリスマスにも大胆に私達に御自身が共なる方であることを宣言してくださいました。涙が拭われて、死をも恐れない勇敢なブレイブ・ハートが私達の内側に形作られつつあるのを感じます。悲しみも、嘆きも労苦も主のご臨在のちから、聖霊の力によって乗り越えることができるという確信が内側にあります。

 ということは、もうすでに、新天新地で経験するべき内容が先に私達現代のクリスチャンの中で、聖霊のご臨在。主がうちに住みたもうということをもって実現しはじめてしまっているということです。テトスへの手紙3:5にこのように記されています。

 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

 聖霊によって新しく生まれてしまっているので、新天新地で経験する内容をすでに先取りして味わっているのがクリスチャンということになります。さらに黙示録を見ていきますと、ヨハネ黙示録21:6。

 「事は成就した。わたしはアルファである、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水から価なしに飲ませよう。」

 主イエス様は一人の人にすでにこのように宣言してくださっていて、主イエスのもとに来るものには命の水を飲ませてくださるということを約束してくださっていました。ヨハネによる福音書4:13。

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 新天新地で味わう未来の前味をすでに内側に感じます。それらは過去から語り伝えられてきたイザヤ書の実現です。

 旧約聖書に書かれていることよりも、もっと偉大なことがすでに起こりました。

 それは主イエスによって異邦人である私達が神の子とされるということです。さらにもっと偉大なことが、記されています。

 新天新地に至る道程をすでに歩み始めているということに気付かされることです。

 神の言葉が実現していくさまを見ていく我々の歩みが今ここにあるのだということを知るとき、全く新しい歩みへの招きを感じます。

 見よ、新しいことをわたしは行う。

 今や、それは芽生えている。

 あなたたちはそれを悟らないのか。

わたしは荒れ野に道を敷き

砂漠に大河を流れさせる。

 アーメン。主の業が起こるように祈りましょう。