ローマの信徒への手紙 5:6〜11 「神との和解」

石井和典 牧師

 非常にわかりやすく端的に、信じるということは何を信じるのかということがローマの信徒への手紙には記されています。信じる者が義とされて救われます。ローマ4:24。

 わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。

 義と認められるというのは、「神の民として、世界を受け継ぐ」ということであるとローマ4章に記されています。永遠に生きるということは、神と共に世界を受け継いでいくということですね。世界の相続者は、信仰によって生きるものであると宣言されています。

 一日も早く行き方の根本的な変化を経験しなければならないということがおわかりになるでしょうか。今まで私達は、なにかできるようになって。人格が整って、なにかが自分でできてから、世界を受け継ぐに足る人格となるのだと勘違いしてきました。それは根本から誤っていた。神の道から道を外した罪人として歩んできてしまっていたということです。

 アブラハムという人は聖書の中の義人の代表です。信仰の父です。この人を通して、イスラエルの民は割礼を受けるようになりました。しかし、アブラハムが義とされて神の民とされたのは、割礼を受けたからではなくて、受ける前から義とされ神の民とされていました。なぜなら、神が彼の信仰を義と認めてくださっていたからです。信仰によって義と認められたから、何をなすべきかを神様から律法によって示されたのです。

 「何をなすべきか」が先にあって、それを達成して、ではない。何かを達成して、世界を受け継ぐものと「自分でなる」ということではないということです。

 信じることによって受け継ぐものとなり、受け継ぐものと定められているものは神の民として整えられていくということなのです。

 だから、信仰がなければ神に喜ばれることはありません。最初のスタートから道をすでに踏み外しているからです。ヘブライ人への手紙11:6にこのように記されています。

 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

 

 しかし、キリストのご存在一つで、わたしたち聖書を知らなかった民も、すべての民がこの恵みの世界に引き入れられることになりました。ローマ5:6に記されている通りです。

 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。

 このアブラハムの信仰の原理がわからないで、他の方を向いて走って、まとはずれな歩みをしていた。それを使徒パウロは「弱かったころ」と表現しています。必死でなにかをゲットしようとして努力して、実際に重要なえるべきものは、すぐ目の前に、父である、親である神を信じるという一つのところにあるのに、別のなにかで埋め合わせようと必死になっている「弱かったころ」に。キリストは私たちをハッと気づかせるためにお越しくださいました。

 キリストのご存在がなければ何も信じるに至らなかった私達です。キリストのお姿にみんな惹きつけられた人がいまここにいらっしゃるわけです。神であるお方が十字架にかけられるという衝撃的な一打でやっと、気づいて、立ち返ったわけですね。十字架のキリストの力によって心に新しい光が差し込みました。それがなければ気づけなかった。それが偽らざる私達の姿ですね。

 さらに、今も罪があとをひいているといいましょうか。度々、この聖書の言葉に帰ってこないかぎり、自分でなんとかしようという地獄のような自己義認の世界に入り込んで、あくせくして、自分のきよさを誰かに証明するように、見せるような行動に出て、なんとかして自分の正しさを認めてもらおうとしてしまうのです。ローマ5:8。

 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 神さまは愛であられますから、交換条件を差し出してこうしてくださいなどというようなことはしなくて良いのです。愛はとにかくそのまま素直に受けて、応答して、恩をお返ししていく。それだけで良いのです。愛を信頼して、信じて、味わうということが重要なのです。しっかり受け止めて噛み締めていればよいのです。

 しかし、神から離れましたので、それでは不安でたまならなくて、自分で行動をはじめていくのが人間。また、日本社会ではそれが善であるのだと教えられて、育てられてきました。

 しかし、ローマの信徒への手紙はこのように記します。ローマ5:1。

 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 信仰によって神の栄光に預かるということ。この落差というものがわかりますか。信じて受けるということで、神の栄光というもっとも高きもの、どんなに人間が努力しても到達しえない神の領域を信仰で受けるのですね。栄光とは神の民となって、神とともに世界を永遠に受け継ぐものとさせていただくということです。

 信仰のみによってというのが、非常に拍子抜けするような内容のように聞こえてくるかもしれません。しかし、この聖書に記されている神が人間に与えようとされておられる恵み。これらを受け止めて、咀嚼し、味わい、その力を十分に受け止めるには、非常に大きな時間と力が必要であるということも確かです。あらゆる誘惑をはねのける戦いをしなければならなくなります。

 神ではなくて、別のなにかで、信仰ではなくて、別のなにかで。つねにそのような誘惑の中にさらされていて、純粋になれないでいます。

 神様ははじめから終わりまで永遠に変わることなく、この信仰の原理によって私たちを導こうとされています。しかし、信仰の原理を無視して別のなにものかによって自分の人生を建てあげようとしているものたちへの怒りが主にお有りです。

 神との関係をぶち壊しにする罪。主を無視して自分で人生を建てあげようと考える罪。

 それは主の恵みを恵みとして受け止めないで、全部スルーして、主をなきものとするようなものです。それらの罪にお怒りなのです。罪にお怒りだということに徹底的にフォーカスをあてる必要があります。

 わたしたちの能力が無いことにお怒りなのではありません。わたしたちが欠けがあることにお怒りなのではありません。わたしたちが不完全であるということにお怒りなのではありません。わたしたちがなにかできないということにお怒りなのではありません。

 わたしたちが神のところに帰っていかないということ、関係性を切ってしまっていること、神を亡き者にしてしまっていること、自らが神のようにでもなろうとしているそういう方向性に向かってしまっていることにお怒りなのであって、その罪以外のなにものにもお怒りなのではありません。

 すべての問題の根源はこの問題をないがしろにしてスルーして、別のなにかを建てることによって何かができあがるのではないかと思ってしまっているところなのです。

 この問題がクリアーにされて、神との関係が回復されない限り、同じ問題でずっとループし続けることになるのです。

 しかし、罪の問題もすでに解消されてしまっています。ローマ5:9。

 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

 キリストの血によって義とされて、神の怒りと全く関係の無いものとさせていただいている。それらは、信仰のみによることです。そして、次です、大事なのは。ローマ5:10。

 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

 和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのです。御子の命が宿ることによって救われ続けます。ローマの信徒への手紙の8章に入ると、霊による命という話がなされます。命をもたらす霊の法則の支配のもとに置かれているのがクリスチャンだということが記されていきます。8:11にはこのように書かれています。

 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたのうちに宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 御子の命がやどり、それによって救われ続ける人生がはじまりました。信仰によって和解させていただいた今は、その力が強くのぞみ、御子の命によって救われ続けるのです。御子が特別にお働きくださり、主の業がわたしたちの人生の周りに沢山起こってくるということですね。私たちは全く別の人生に招き入れられました。もう、一人で生きる必要はなくなり、信仰によって神との関係が回復して、御子の命がのぞみ、御子の命が望むということは御子の心がその内側にやどり、聖霊がやどって、聖霊という命によって、全く別の次元の人生をあゆみはじめるということなのです。

 和解させていただいたのですから、自分の行動やきよさを積み重ねるのではなくて、神の命によって歩ませていただきたいと願います。命を生きましょう。聖霊を受けましょう。聖霊によって歩みましょう。アーメン。