コリントの信徒への手紙Ⅰ 13:1〜13 「愛が一番」

石井和典牧師

 コリントの教会には問題がありました。信じる者たちが仲違いしていました。彼らには賜物がありました。霊的な賜物に関する記述を見てみますとこのように記されています。コリントの信徒への手紙一12:7〜11。

 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

 特別な力が聖霊によって与えられていました。しかし、彼らはそれらを愛によって用いるよりも、自分が人よりも優れているということを証明する道具として使ってしまっていました。その問題について書かれている箇所が、3:1〜です。

 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。

 妬みや争いがその共同体の中にある限り、肉の人として歩んでいるに過ぎないのだとパウロは断言しています。

 少なくとも争いがあるのならば、愛しているとは言い難い。愛があるかどうかがキリストの共同体の中心です。キリストは愛だからです。キリストがおられるところ、争いなど起こり得ないのです。どこか中心がずれて、「愛する」から離れてしまう。自分の思いを追求して、キリストを追い求めることからいつの間にか離れてしまう、そういう状態に教会は陥りがちであったということです。

 それは今も、昔もこれらかもこの世にある限り同じところで教会はつまずくということです。

 争いにしてしまった時点で、キリストを追い出してしまっているということになります。

 教会はキリストがおられる場所です。教会はキリストのご臨在だけが生命線です。キリストに集中するべきです。この御方がおられるかどうか、この御方の愛をうつしているかどうかだけに集中しましょう。それ以外のことは二の次、三の次です。

 それも、人にそれを求めるのではなくて、自分自身がそのようにさせられているかどうかだけ問いましょう。

 自分をみて自分が小さなキリスト、キリストの弟子、キリストのマインドをもっているか、そのことを問うことだけに集中したら、全然違う共同体ができますよ。すばらしい共同体です。

 今、どうですか。自分に問うんじゃなくて人に問うていませんか。そのような共同体は裁きあいの恐ろしい共同体になります。自分にだけ問えば良いのです。そこから始める必要があります。マタイによる福音書7:1〜3にこのように記されています。

 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

 自分の目の丸太さえ除けばあとは問題はないのです。それをしないから問題なのですね。人のことを問題だ問題だと騒ぎまくっているその人が問題なのです。他者を裁いて怒りに燃えている人。その人自身が問題です。暗い顔をしてあの人が問題だと言っているその人自身が問題であるということがわかります。

 すべての人が自分の目の丸太をとればスッキリと解決していくのです。

 そして、裁きあうことをやめて、ひたすらにキリストの愛の中に浴し続けてエネルギーを受けて行く人が起こされていくというところが教会です。神の愛にふれることによってのみ人間は変わるのですから。

 信仰によって、主を信頼して、そこから力を得ることによって変化が与えられ、新生という新しく生まれるということが与えられて、新しく生まれた人が神の国にあずかっていくのです。新しく生まれなければ神の国に入ることはできません。そのためには、自分たちの行動を改善して、自分たちでお互いの悪いところを指摘しあって、改善して変わるということではありません。聖霊によって新しく生まれるということが起こり、新しく生まれた人たちが神の国を人々に見せる働きがなされていくということが起こっていくわけです。

 キリストを経験して経験して、満たされて満たし尽くされてはじめて、主の愛に立つということが実現します。

 愛に、キリストに生きている人が、良い行いをしたり、教会の業にのぞんでいかないかぎり、常に動機が自分に向かうものになってしまうのです。

 自分のための奉仕、自分のための賜物、自分のための他者、自分のための信仰、自分のための奇跡。そうじゃない、愛は他者のために何も求めずに徹底的に与え尽くすものです。親が子に徹底的に自らの愛を注ぎ続けることです。親は子供がなんと言ってこようとも、動じずに愛を注ぎつづけるものです。それが親。コリントの信徒への手紙一13:4。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 キリストを迎え入れて、常にこの御方を中心にしているならば、不完全であっても、ここに記された内容をしっかりとうつした共同体や人がここに実現していきます。信じて、聖霊を受けて、新生しなければこのように親のような愛をもつことはできません。自分の行動を改善して積み上げてなどしていても無駄です。

 キリストを迎え入れないと、このような愛による共同体ではなくて。争いと妬みが、いつも中心にあるような共同体になります。

 今回改めて聖書と向き合い、13:8〜13に触れて、ここに書かれていることがいかに私の救いであるのかということを発見しました。

 というのも、この信仰生活19年。キリストの愛は本当に教会の中にあるのかという現実を見てきたからです。教会の中に争いがあることを知りました。今も教会に来られていない方々の中には、教会はすぐに争うから行きたくないとハッキリとおっしゃられる方がおられます。そのことに反論できないような現実が見えるところで、見えないところにあります。

 そういった現実を押し殺して、見ないようにして、フタをしてきました。

 しかし、ここに記さているのは、そんな現実を知ってる我々にとって救いです。現状は不完全なのはそれはだれの目にも認識できる、それをしっかりと受け止めている。しかし、その不完全さは本物が現れてくださったときに、すべてクリアーにされてといいますか、完全な主のご愛にとって替えられるのだということがわかります。

 教会は不完全で途上にある。しかし!コリント一13:8、9。

 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 

 そして、私はこのあとがさらに今のわたしたちに必要な言葉だと思うのですが。13:12以下です。

 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

 はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

 今の現状を神様はよくご存知であられますし、すべてその本質から、心の奥底に隠した本心までご存知です。それらはすでに主に知られています。だから、コリントの信徒の人々にパウロを通してメッセージを主はくださったわけです。

 自分たちの信仰深さを誇っているようだけれども、争っている時点ですべて無意味だよと。愛に根ざしていないから。恐ろしくまっすぐに、本質を指摘されて、無に等しいと言われてしまっているわけですね。

 しかし、人間がやっていることは無に等しいけれども、神が来られて、本質を明らかにされて、今神があなたがたの本質を知っておられるように、今度はわたしたちが本当のことを包み隠さずしるようになって、最後までの主のこころにかない残り続けるものを知り、それだけになって行く。

 最後に残るものとは。コリント一13:13。

 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 信仰と、希望と、愛しか残りません。それ以外のものはすべて新しくされてしまいます。だから、これら主が与えてくださったものの中に生きる事以外、わたしたちにとって実際意味のあることなどありません。

 信仰と、希望と愛をたたえた雰囲気と顔色と、態度と、お姿でこの教会に集まっている人たちがキリストのものであることを喜んでいれば、主は祝福を必ず増し加えてくださいます。主が求めているもの、残そうとしているものを第一に求めていないから、祝福を逃してしまっていただけなのです。祝福を逃すと、水の栓を抜いたようにさーっとその人から喜びが消えていきます。

 でも、キリストが残そうとされた、信仰、希望、愛。ここにとどまろうとする人はどうでしょう。キリストにとどまることになり、キリストがやどり、キリストが宿ると喜びが溢れ、祝福がふれ、お風呂の栓がされたように、祝福が溜まりに溜まっていきます。その結果、人を暖めることになります。

 信仰、希望、愛。ここに立つことはキリストのご臨在をうち側に迎え入れることです。永遠の世界をいただくということです。これは滅びないのです。それ以外のものは滅んでなくなります。

 しかし、信仰、希望、愛。キリストはなくなりません。このいのちを私たちはキリストからいただきました。しっかりと持ち続けたいと思います。アーメン。