フィリピの信徒への手紙2:6〜11 「低くくだる神」

石井和典 牧師

 この世界を造られた神さまは、イエス・キリストによって御自身を現してくださいました。イエス様を見れば、全能の唯一なる神を知ることができます。その御方は、わたしたちの痛みに触れてくださるために肉をとられた方。神であられるのに、その立場を捨て人間のところに降られた方です。降って、陰府にまでいかれたお方。陰府で救うべき人を救って、陰府をパラダイスにまで変えてしまわれるお方です。だから、我々はこのご存在だけを求めていく。この御方がこの場所におられればオールオーケーなわけです。

 キリストがここにおられる共同体ができるとどのようになっていくのかというと、それが本日の朗読された箇所のすぐ前に記されていることです。フィリピの信徒への手紙2:1〜5です。

 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 これがキリストの御足の跡をたどる道であるとパウロはフィリピの教会の人々に勧めています。キリストを追い求めているのであれば、そこに必ず一致があたえられます。一致がないということは、キリストを追い求めていないといことです。同じ霊を受けていれば、心が一つになっていくことが当然起こるからです。この人のために祈りつくそう、この地域のために祈ろう。世界のために、と集まっているところには必ず一致がある。虚栄心や利己心はどこかに行ってしまいます。キリストにおける一致の喜び、互いが互いのことを敬っている関係性ができあがっていきます。

 これらの教会の徳はすべて、キリストを追いかけていく時に与えられていくものです。キリストを追いかけるのではなくて、別のなにかでまとまろうとしますと、虚栄心や利己心が中心になり、一致ではなく、分断、争いが生まれてきます。敬意を払うのではなくて、軽蔑と蔑みが起こり、なんでも文句、小言、不平不満をつけるようになる。ちょうどイエス様の周りにいた、ユダヤ人、ファリサイ派、律法学者、サドカイ派の人々がイエス様になんでもいいがかりをつけていたように。

 つぶやくのをやめなさいとイエス様はよくおっしゃいました。

 どちらの方向に向かっているのか、キリストを追いかけているのか、自分自身を追いかけているのか、最後に実を結ぶ実をみればよいのです。敬意と尊敬か、蔑みと争いか。

 パウロはキリストの共同体である教会は、ひたすらキリストを追いかけて、福音にふさわしい生活、すなわちキリストに似たものとされることを求めよと勧めています。フィリピの信徒への手紙1:21、27。

 わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。

 キリストの共同体の判断基準は、イエス様だったらどのようになされるだろうか、ということだけです。使徒パウロはキリストを常に追いかけて、常に自分がどう生きるのかというモデルにしていました。御言葉を学んで、普段の行動は違うというようなあり方ではありません。その使徒の伝統にならうのが教会です。使徒的共同体が教会です。その教会は、キリストを生きます。

 キリストのお姿を、非常に美しく、まとめ上げてくれているのが、本日の使徒パウロの言葉です。フィリピの信徒への手紙2:6〜11。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 この言葉の中で最も重要な言葉が「従順」です。なぜなら、すぐその後の箇所を見てもらえばわかりますが、フィリピの信徒への手紙2:12。

 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

 パウロはキリストのお姿を思い起こして、イエス様が十字架におかかりになられるまで、天の父なる神さまのご意思を聞いて、その神様のご意思に従うことを選ばれたことを、思い起こすようにと言っているわけです。そのイエス様のあとをついていけと。

 イエス様が、地上に降られたのは、天の父なる神のご意思であり、人間の姿になられたのも神様のご意思。十字架の上で呪われたものの姿をとられました。それも神様のご意思です。十字架刑の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばなければならなかったのも天の父のご意思。

 イエス様は、ゲッセマネの園で血の汗を流しながら苦しまれたわけです。それは一瞬たりとも天の父から離れされることのなかった主イエスが、神に捨てられたものの姿、十字架(申命記21:23。『木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。』)をとらなければならないということが絶対的に受け入れ難かったからにほかなりません。天の父が命の命。このお方との交わりこそが、この世界のすべて。この御方がおられなかったら、世界は無い。この父と子と関係性が崩されたら、この世も、天も地も終わりです。すべてが意味がない。この父と子の愛があるから、すべてに意味がある。しかし、この関係性が壊されたら、カオス。灰燼に帰するのです。だから、この世の終わりのようなお姿、血の汗を流すお姿をゲッセマネの園でイエス様はおとりになられたのです。ゲッセマネの園というのは油しぼりの園です。命が潰されて、潰された命の犠牲によって、渾渾と湧きいだす命の泉。この時から永遠の世界をクリスチャンは我が内に得たのです。主イエスの命が潰されるという犠牲がなければ、わたしたちの永遠性というのはなかった。だから、ある解説者は、ゲッセマネの園で主イエスがすでに十字架にかけられているという人もいます。それは、あの血の汗を流す祈りのなかで、主イエスは神に捨てられ呪われるということをお引き受けになられていたからです。嘆きの極みです。そんなことはあってはならない。しかし、それこそが、人類に対する主なる神の愛だったのです。

 なんで親が子供のために痛みを負って生み出さなければならないのか。

 なんで親が子供のために最大限の犠牲を払って生きていかなければならないのか。

 どうして、そもそも親子関係があるのか。

 それらすべては神に由来するわけですが、天の父は、御子イエスにすべてを背負わせることによって、わたしたちも永遠に生きるものにならせるという道をお取りくださいました。父から生み出された子供たちがみんな父と一緒に永遠に生きることができるように、今まで間違って歩んできた、神無き世界だと思いこんで歩んでしまっていたわたしたちの目が開かれて、すべてに主のご愛があることを実感できるようにさせていただいたわけです。

 パウロはフィリピの信徒への手紙2:12で「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」と言っています。

 信仰によって救われるのであって行いではない。ならば、なぜここで「努める」すなわち「努力する」などという言葉が出てくるのだろうかという疑問を持つ方もおられるかもしれません。しかし、パウロが目指している先はどこかというと、キリストです。キリストがわが内に宿る。キリストの心で満たされる。このようにキリストで自分を満たすということを、自分以外のだれもすることができません。その部分はすべてわたしたちの意思にまかされている。すでに信じたキリストへの信仰を抱きつつ、我々の共同体はキリストのように、父と子の交わりを何よりも重要視する、キリストのようになっているだろうか。そこに向かうかどうかはわたしたちにかかっているわけです。

 ゲッセマネの園で神との関係がすべてであることをお示しくださっていたキリストのようになっているだろうか。神の心に満たされて常に、慈しみや憐れみの心がすべてに先立ってでてくるような共同体になっているだろうか。同じ心を抱き、心を合わせて思いを合わせて、キリストを喜ばせようとしているだろうか。そのような共同体であれば、使徒であるパウロの内に大きな喜びがやどるということなのです。

 キリストを一心に追いかけていこうとする共同体の中にいると、指導者であるパウロに、大きな喜びが宿るわけです。利己心や虚栄心はどこかへ飛んで、相手への尊重と尊敬の念が満ちている。そんなキリストの共同体をめざしていたのです。

 愛するキリストの思いに従順であれば、「とがめられるところのない清い者となり。よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」とパウロは勧めています。

 キリストを追いかけているクリスチャンはどうしたって、誰が否定しようとしも輝いてしまいます。キーワードはキリストがお見せくださった「従順」です。御言葉に従うものは星のように輝きます。アーメン。