ローマの信徒への手紙 3:21〜25 「信じる者の義」

石井和典牧師

 神の前に正しいものなどいませんでした。神の前に来て、キリストの心に満たされるまでは、何も知りませんでした。この世が「神の創造物」だということもわかっていませんでした。存在の根拠であられる「わたしはある」というお方がこの世界を造られたのにも関わらず、その初めのお方のことを思わずに歩んできてしまいました。

 それは、信仰に生きることが難しかった日本人だけではなくて、信仰の民と言われてたイスラエルの民、ユダヤの民にとっても同じだったのです。

 それがローマの信徒への手紙3章に記されていることです。

 信仰に生きているように見せかけてそうではないという状態がありうるということです。

 ユダヤ人のことを話しているように見えますが、これはユダヤのみならず、教会、人類についてもあてはまる内容となっていることがわかります。

 確かにいつの時代の信仰者も冷静に見てみれば、信仰の言葉にのせて自分が思っていることを主張している人がたくさんいることに気づきます。皆罪人です。

 パウロはそのような状態をローマ3:9でこのように表現しています。

 では、どうなのか。わたしたちに優れた点があるのでしょうか。全くありません。

 パウロはユダヤの民、またクリスチャンのことを言っているわけです。クリスチャンにすぐれた点は全くないと言い切っています。このポイントが大事です。信仰者自身には優れた点は全くありません。

 肉の要素、人間の要素、自分たちが持っているもの、そういったものは常に腐敗し、堕落し、ダメになり、天の力を表すものではなくなってしまうからです。ローマ3:10〜18の信仰者たちの偽らざる姿というものが表現されています。これらは、詩篇、イザヤ書が組み合わせされ編集された内容の言葉となっています。おそらく初代教会で聖句集の中に入っていたものではないかと思われます。

 非常に重要なところなので読みます。この言葉がパウロによって教会に語られているということが大事です。わたしたちにも語られているということです。

 正しい者はいない。一人もいない。

 悟る者もなく、

 神を探し求める者もいない。

 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。

 善を行う者はいない。

 ただの一人もいない。

 彼らののどは開いた墓のようのであり、

 彼らは舌で人を欺き、

 その唇には蝮の毒がある。

 口は、呪いと苦味で満ち、

 足は血を流すのに早く、

 その道には破壊と悲惨がある。

 彼らは平和の道を知らない。

 彼らの目には神への畏れがない。

 真実なる全てを見通すことがおできになる神の目で見れば、すべての人がこのような状態にあると、だからパウロは優れた点は「全くない」と断言しているわけです。

 こうすべしああすべしという律法によっては、罪の自覚しか生じず、神様がこのように生きてもらいたいとか、そういう要求に応えることができない人間の真実なる姿が明らかにされていくのみであるというのです。たしかに、徹底的に間違っていて、その間違いが何なのかということに気づくことができるのが律法、旧約聖書ですね。

 わたしたちのことがそのまま、わたしたちの失敗からなにから、どこでつまずくのか、どこで神様を裏切るのか。今も昔も全く変わらない現実があることが示されています。今の教会がどこでつまづくのか、イスラエルの民、すなわち旧約聖書を読めば同じところでつまづいているのがわかります。

 でも、その至らなさを知っても、「自分で変えようとしても変えることができるものではない。」わけです。自分で自分をどうすることもできない。このように記されている通りです。ローマ3:20。

 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 じゃあ、この現実を打開するものはなにか。というと、それが本日朗読された箇所です。3:21。

 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

 イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。信じて確率されていく義です。

 ここに律法を確立するため、行動も何から何まで変化して、神様が願われたとおりに共同体になっていく鍵があります。3:31にこのように記されています。

 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

 旧約聖書を確立するには、共同体が神の民として神の願われた通りに生きることができるようになるのは、自分で律法を実行してなんとかしようということではない。キリストを信じて、キリストにおける信仰の義を得て、関係が回復したものが与えられる道であるということなのです。

 どうして信仰の民が、旧約聖書でつまづいている民と同じようにつまずくのでしょうか。現代の教会もつまずいているようにしか見えないのでしょうか。それは律法の実行による自分の義を立てようとしているからです。信仰によって義とされたところに徹底的に立たないといけないということです。信仰による義に立つものは、自分たちに優れたところが全くなく、神の支配、神の義によって関係が回復したことが唯一優れたところであると知っています。だから、神との交わりである祈りの重要性を知っているわけです。イエス様が昼も夜も祈られて、早朝も祈っておられた姿を知って、そのイエス様に自分を重ねるようにして、関係が回復されていくということを経験するわけです。祈りの中でエレミヤ書31:31が実現していることを悟るのです。

 しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 そして、本日の3章のすぐあとの5章でこのようにまとめられているのを見ます。ローマ5:1。 

 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を産むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 神の霊によってバプテスマされた人、満たされ浸された人の姿がここに記されています。これまでとは全く違うあり方です。神の栄光にあずかる希望をこそ誇りとして、苦難がやっってきても、そのことをお通して自分が練られてさらに希望を生み出すのだということを知っているというのです。神との関係が回復しているからですね。義を得ているからです。義を得て、すべてが主との対話の中に入っているので、ものの見え方から感じ方からすべてがいままでとは違うということです。

 人がどのように律法の実行に至るのか。義を完成させるのか。それは、信仰からスタートします。

 

 ユダヤの3大祭りの順番がもうすでにわたしたちをどのように主が導こうとなされているのかということ神の業が指し示されています。

 3大祭りを思い出してください。過越祭(ペサハ)、7週祭(シャブオット)、仮庵祭(スコット)です。過越は、過越の小羊が屠られ民が解放されたことを覚える祭りです。これは十字架です。十字架によって犠牲がささげられて、そこから神様との関係を回復した。義を回復したのです。そこがスタートです。過越の祭りがスタート。キリストが過越の小羊です。

 七週祭はペンテコステです。ユダヤでは律法授受の祭り、わたしたちにとっては聖霊降臨祭です。聖霊のバプテスマを受けて、人々が生まれ変わった。信仰に入っていった人々が聖霊の満たしによって、聖霊のバプテスマによって生まれ変わったわけです。

 そして、仮庵祭です。イエス様は仮庵の祭りの最後に叫ばれました。ヨハネによる福音書7:37。

 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 この叫びは仮庵の祭りでの叫びだったのですね。仮庵の祭りの最終日は、祭壇の周りを祭司のみならず、普段は祭司しか入れない祭壇の周りをみんなで七週します。エジプトから逃れて砂漠でテント生活を余儀なくされた民が、その渇きを覚えて、詩篇118:25を叫ぶのです。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。

 この、「お救いください」という言葉は、一言で「ホサナ」です。ホサナと叫びつつ老若男女が渇きをおぼえつつ祭壇をまわったのです。祭壇の南西にはヤナギの木の枝がその日の内に切られて立てかけられていました。ヤナギの木は一瞬で枯れてしまうもののようです。そのヤナギの木に砂漠を渇きつつ歩む自分たちの姿を重ね合わせ「ホサナ」「お救いください」と叫ぶのです。そこで主イエスが大きな声で叫ばれたのです。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」

 主イエスが与える命の水。永遠の湧き水。それは信じることから始まり、聖霊の満たしによって主の内住を経験し、満たされて満たされ尽くした民が、命の水を味わいつつ、主がねがっておられる共同体の完成に向かうということだったのです。十字架がなければ、ペンテコステがなければ、聖霊の満たしがなければ、聖霊のバプテスマがなければ、命に水に到達することはない。

 聖書を自分の力で実行しようとしている人は、律法主義になります。自分の力でやろうとするので、それができていない自分も人も気になって仕方がないのです。しかし、優れたところなど全く無いと言い切れた使徒パウロは、聖霊を受けて、神の力によって聖霊のバプテスマによって律法の完成へと向かいました。十字架、ペンテコステ、聖霊のバプテスマ、命の水。このプロセスを通って主の共同体が建て上げられます。もうほかのことでなんとかしようとするのはやめましょう。アーメン。