マタイによる福音書 26:26—30 「主の食卓につく」

石井和典牧師

 

 契約の血によって、契約が締結されています。血が流されることが大事でした。神の民として迎え入れられるという血判です。背いていた人生がすべて精算されて、神のものとしてこれからは生きられるという契約の血です。教会に人の暖かさを求めて来ていただけだったとき、血の話が出てきてギョッとしました。なんという物騒な話がなされているのだろうかと。しかし、この契約こそが中心であります。

 契約の民であるというアイデンティティこそが、クリスチャンのすべてのすべてとも言える内容です。

 聖餐式の場で覚えるのは、キリストの血が流されたのだという現実です。

 それによって私は約束の民とさせていただいたのだという喜びです。

 全くふさわしくないものがこの契約の民とされているのだという驚きです。

 どうして血が流されることによって契約が締結されるのでしょうか。それは出エジプト記の24章、モーセのシナイ山での契約授受と神と民との契約締結がもとになっています。動物の犠牲の血によって神と民との間の契約が締結されています。出エジ24:7、8。

 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

 契約の血は民が神の民となるために流される必要がありました。

 では、神の民となるということはどういうことなのでしょうか。

 それが記されているのが出エジプト記19章3〜6節です。十戒の前に記されている重要な箇所です。神が民をどのような民として迎え入れてくださるのか、どのようにしてくださるのかがわかります。

 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

 イスラエルの人々とは約束の民となるべく選ばれた民です。この約束の民は、エジプト人の強大な力から弱小の民であったにもかかわらず救い出され、すべてを持っておられる神によって、宝とされて、大事にされて整えられて、神と人とを結びつけ続ける国の民として、他の民とは区別されて聖別されたものとして、神の国をはっきりと指し示す民となる。何よりも、神が鷲の翼にのせるようにありえない苦境から常に救い出してくださる民であるということをもって神の国を指し示す民となるのだということです。

 神様の宝は信仰の民であるということです。

 イエス様がなされたご行為を一つ一つ振り返っていきますと、芋づる式に旧約聖書のイメージがつながって出てくるのがおわかりでしょうか。すべて旧約聖書が土台となっています。神の約束、契約が連続して、わたしたちが理解することができるようにつながっています。過越の祭りの日を最後の晩餐に、また、十字架の時に選ばれたのも、過越の祭りの動物と、ご自分とを重ね合わせるためです。エジプトでの神様の裁きの業が、過越の血を鴨居に塗ったイスラエルの民を過ぎ越すのです。裁きが通り過ぎるのです。同じように、主イエスの血によって守られているわたしたちは裁きが過越していく。本来ならば神の裁きによって滅ぼされるべきものでありましたが、滅ぼされることなく、裁きが通り過ぎるのです。

 

 主イエスがこの食卓の席をご準備くださったのは、後の世代のわたしたちもこの食卓にあずかって主イエスがすべての民と過越を共有されたことを、わたしたちも同じように共有するためです。

 ですから、パンと、杯とが準備された時、この主イエスの食卓の中にわたしたちも入れられます。この食卓が契約の食事であると宣言された時に、わたしたちから後の時代の人々に対してもこの食卓が開かれてこの食卓が永遠に忘れられることの無いものとして準備されていきます。神の民としてイスラエルと同じように選ばれた人々が皆様です。ヨハネ福音書15:16。

 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

 この食卓にはペトロがおりました。ペトロは主イエスを三度知らないと言って裏切ってしまいます。にもかかわらず彼が教会の礎とされて、天の国の鍵を握るものと言われます。イエス様に三度しらないと言うだろうと宣言されても、自分は決してそんなことはしませんと豪語しているのですが、結局イエス様がおっしゃられたとおりになってしまいます。彼はここまで言っていました。マタイによる福音書26:35。

 ペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

 しかし、この言葉は全く守られず、主イエスはお一人で十字架の道に向かわれたのでした。いくら信仰に根ざしたように見える発言をしていても、主イエスの心がその奥底まで染み渡って力になっていなかったら、全く動くことはできないということがわかります。しかし、聖霊が御言葉とともに働き始めると、人間が変わることが、ヨハネによる福音書の14〜15章に記されています。早天礼拝で先週読み進んでいた箇所ですが、この言葉も最後の晩餐の時に主がお教えくださった内容です。そこにははっきりとこのように主イエスが断言されています。ヨハネ福音書14:12。

 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになるわたしが父のもとへ行くからである。

 イエス様に大口をたたいておいてそれを守ることができない弟子がイエス様よりもっと大きな業を行う?そんなこと誰が信じることができますか。信じられないですよ。しかし、主は、アメーン、アメーン、レゴーヒューミン(まことに、まことにあなたがたに言います)と強調されて、弟子たちは大きな業を行うと断言されました。それはなぜなのかというのが、ヨハネ福音書14:15です。

 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。

 どうして弟子たちが大きな業を行うことができるのか、それは弁護者が遣わされるから。だから、主イエスが天に昇られるのは良いこと。十字架におかかりになられて、死なれて、復活し、天に昇られる。すると聖なる霊が送られてくる。聖なる霊というのは、弁護者と呼ばれる。パラクレートスという言葉です。傍らに呼ばれたものという意味です。わたしたちのそばに常にいてくださる霊。その方は真理の霊です。真理の霊は、今まで見えていなかったものが見えるようにしてくださいます。すると、人々は行動から何からすべてが変化する。聖霊によってすべてが変化するのです。聖霊による変化でなければ何も変わりません。

 最後の晩餐とつながっている箇所がヨハネ福音書14〜17章なんだと改めて読みました。以前から知っていたはずの言葉なのですが、これが後の教会のこと、ペンテコステ後の教会がどのように力を受けて主の御体としての働きをなしていくのかが記されている箇所なのだと読めてきます。

 すなわち、力ない弟子でしかなかったペトロたちが、どのように力を受けるのかがはっきり記されている箇所として読み直しました。

 それは一言で言うならば、御言葉にとどまり真理の霊を受け入れ、見えるものが何から何まで変化していき、その結果、行動も変わり、愛するということだけを選択し、実行できる共同体へと変化していくということです。実りを得る共同体とさせられるということです。

 そして、最終的には主とこころもからだも一体である、思いも受け入れ、向かう先も体も同じような方向に行く、主と一体である共同体を作るということです。ヨハネ福音書17:21。

 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。

 なるほど、伝道とはなにか、まずこの食卓について、主イエスがお語りくださる言葉に聞いて、自分がこれからどう変化していくのかを知るということからなのか。確かに、主によって変化させられた人が、ペトロのように、自分の信仰深さを豪語していた人が、聖霊の力によって、今までとは全く別の力によって生きるようになるということなのか。アーメン。