マタイによる福音書26:36〜46 「神に従う」 

石井和典牧師

 イエス様の命が注ぎ出された現場が、ゲッセマネの園でした。ゲッセマネというのは油しぼりの園という意味です。オリーブが潰されることで、油が注ぎだされます。キリストの命が潰されたことによって、命が注ぎだされて、油が絞り出されたのです。油というのは聖書では聖霊を指し示します。油が滴って命に満ち溢れて出ていくことができる。これが聖霊を受け取ったものたちの姿ですが。使徒たちは、そのような姿となって世界宣教のために出ていくことが許された人々でした。

 王の戴冠式の時に油が用いられました。ヘブライ語の「マシアハ」は「油注がれた者」でありラテン語でメシアとなり、今私達もメシア、救い主として使っています。これはもともととは、油注がれた王に使われる言葉でした。油注がれた王であり、メシア、救い主である主イエスが、ご自分が潰されることによって、その油を使徒たちに注がれました。使徒信条を告白しています。現代の教会は、その使徒たちの油注ぎの中にあると理解するわけですね。ですから、キリストという王の権威のもとに、わたしたちはある。この王の油注ぎを私達も受け取っている。だから、聖霊を注がれて、自分の人生の中に油注ぎを信じていくものたちに、実際に主の業が起こってくるということが起きるわけです。王のもとにあって、王の力によって、王に属するものとして変化していくわけです。

 主はご自分の命が潰される十字架のときを意識されて、オリーブ山のゲッセマネに行かれました。そして弟子たちをしっかりとすぐ近くにおらせて、この弟子たちに命を注ぐことを願われ、弟子たちを伴われたわけです。

 裏切る弟子たちです。

 キリストのために死にますと言っておきながら、自分にとって不都合なことが起こると逃げ出して、決して死ぬことはできなかった弟子たちです。しかし、主はそのものたちを近くに引き寄せてくださいます。裏切るものたちを包み込むことができますか?しかし、これが主イエスのご愛です。このご愛の中に入っているから礼拝に集められたわけです。このご愛が今ここにあるうちに、どうぞ、その思いに応えていただきたいと思います。

 主は痛んでおられる姿を弟子たちにお見せになられました。少し離れたところで。

 主の痛みを見ることが大事だからです。「死ぬばかりに悲しい。」とおっしゃられました。主が何に痛んでおられるのかです。

 私たちは幸いです。主が何に向かい、杯とは何であり、どうして痛み、その痛みをどのように解決されるのかを知ってこの話を聞くことが<できるからです。

 主が痛んでおられるのは、十字架です。十字架がなぜ痛いのかといえば、それは肉の痛みがそこにあるからだけではありません。何よりも痛いのは、天の父と離され、「呪われたもの」とならなければならないからです。申命記21:22、23にこのようにあります。

 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。

 呪われた者とは、神の怒りがその上にとどまるとか、神との間に敵意があるとか、すなわち、神との関係が断絶してしまうということです。関係性が壊れてしまうということですね。罪というのは、神との関係が壊れている状態のことです。呪いというのはですから、神の側から怒りがそこに注がれて関係が壊れてしまうことであり、罪とは自分から神との関係を壊してしまうことであることがわかります。その結果具体的には祈りを失います。ヨブ記に出てきますヨブなどは、肉体的にも、環境的にも人から呪いとしか思えない状況に追い込まれますが、祈りを失っていませんので、神との関係が崩れたようにみえてもつながっています。だから、ヨブはしっかりと気づきと回復へとつながっていきました。

 関係が壊れている状態をイエス様が「飼い主のいない羊のようなありさまを憐れまれた」という記事から理解できます。罪とは飼い主がいない状態のこと。それを見て主は痛みを覚えられたということなのです。マタイによる福音書9:36。

 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

 腸がよじれるような痛みを覚えつつ憐れまれたのだと、以前にも説明しました。スプランクニゾマイという言葉が使われていて、主は、民が罪の中で飼い主を見つける事ができない状態であることを何よりも痛まれたということなのですね。なぜなら、神との関係さえあれば、牧草が与えられて、水が与えられ、天のエネルギーが与えられて生きることができるからです。しかし、飼い主がいないと食べ物を得ることができずに死んでしまいます。肉における食べ物のみならず、永遠の命に関する霊的な食べ物である主の御言葉を得ないと人は霊的に死んでしまいます。

 十字架は、主なる神がキリストを「呪われたものとして木にかけられる」ということです。だから、イエス様は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばれたわけです。全地は暗くなり、希望そのものである、光そのものである主イエスが失われてしまったわけです。ありえないことが起きたのです。主が死ぬほどに悲しいとおっしゃられることが起こった。

 キリストが神に呪われるということは、世界が壊れるというようなことよりも起こり得ない。宇宙が壊れるということよりも起こり得ない。全ての基本の基本、ベースが、源が神であられますから。しかも、その神と、独り子と聖霊との交わりこそが世のベースなのですから。その神の交わりが崩されるなどということは世界が終わることよりもあってはならないことです。

 しかし、子どもたちを活かすために、宝の子たちを活かすために神は決断なされたのです。宝の民、祭司の王国、聖なる民として歩むことができるように、信仰の民の導きを主なる神は決して諦められなかったのです。その結果があの痛ましい十字架。世界の中心であられ、最も美しいお方が、十字架上でボロボロにさせられてしまった。

 しかし、神はその関係性を回復させるためには、そこまでしてくださるのだということを知る者たちの霊は復活し、心は蘇り、体も力を受けていきます。御言葉と祈りの中で神の霊を受けるということが命だったことに気づかされたのです。

 天地万物を造られた主なる神。その独り子、主イエスの命がけの突進と言いましょうか、命がここにそそがれていたのだと理解できれば、その人は、恐ろしいほどの力を受けるでしょう。神の心は恐ろしいものでありました。独り子を十字架にかけるのですから。ありえない決断でした。しかし、主イエスはそのご決断に従われました。ご自身の思いを捨てられて、一瞬たりとて、主なる神から離れるなどといことは考えられないお方が、従われて、主のご意思に自分を捨てて従われるということをもって、世界が変わりました。

 回復されたものたちが、油注ぎを受けます。ゲッセマネの園で主が命を注ぎだされた、その命を受け取ることができるようになりました。聖霊降臨が起こっていきます。そして、世界そのものが変わります。

 弟子たちは、ゲッセマネの園で三度眠ってしまいます。目をあけて見るべきものを見ていない。肉が弱くて見なきゃいけないものを見ることができない。それが弟子たちでした。その弟子たちの姿は2000年前の、心の弱い、どこか遠くの私達と関係の無い人ではなくて、私達の姿です。

 見るべきものに目が開かれていない。

 見なきゃいけないものをみていなくて、自分の思いの中に閉じこもっている。視点が偏っている。自分のメガネでしか物事が見えていない。「眠っている」ということは様々に表現できると思います。

 三度眠っていたということは「完全に」目が閉じられている状態であったということです。完全に目が閉じられてしまっていた。自分の肉に閉じ込められていた。自分の自我に閉じ込められていた。自分の思いに閉じ込められていた。そういった自分の本当の姿を知ることが悔い改めです。

 受難節、灰の水曜日礼拝からはじまりました。灰の水曜日礼拝での説教で「メタノイア」というギリシャ語が大事だという話をしました。メタとヌースの組合わせがメタノイアです。メタは「高次元の」とか「後から」とか、「上」とかいう意味で、ヌースというのは考えとか思いと説明しました。

 この記事を書いている時点の「後の」弟子たちは自分たちの姿が見えていますね。自分たちが主イエスを裏切ったものであることを認識しています。しかも、どのように主イエスの思いを踏みにじってしまったのかを詳細に覚えています。それは彼らが自分自身のことを客観的に見えるようになったからです。主イエスがどのようにお考えか、主イエスをどのように悲しませてしまったのか。主が「目を覚ましていなさい」とゲッセマネの園でお伝えくださっていたことはどういう意味なのか。そのことが一本の線をつなぐように、主イエスとつながりながら、理解するに至ったのです。

 だから、この三度もの失態、三度も眠っていた。「にもかかわらず主は!」ということを記憶できる状態に至ったのですね。

 主イエスは十字架という杯が取り除かれるようにと三度も祈られました。十字架がいかに恐ろしいものであるか。神との関係が切れるということがいかに恐ろしいものであるか。この恐ろしさを自覚できていないのが私達です。見るべきものが見えずに、闇を見つめて闇に落ち込んでしまうのです。

 しかし、それに気づくことが重要です。弟子のように目を閉じていたのだと、しかし、今からは目を開こう。開いていなかった自分を認めて、これからは見えていなかったものが見えるように、主が直ぐ側で祈っておられる姿が見えるように。主の思いに気づくように。自分自身が客観的に、主からの視点で見えてくるように。そのようにメタノイアしていった、弟子たちは恐ろしい主の命、聖霊にあずかって、その聖霊によって生きて、聖霊によって業を行った。主イエスの命の油が行き渡るのですね。悔い改めたものたちの内側の隅々まで命がオリーブ油が染み渡るように、広がっていく。その油の力に頼りたいと思います。アーメン。