マタイによる福音書 27:32〜44 「十字架の主」

石井和典牧師

 十字架におかかりになる前にすでに、イエス様はローマの鞭によって傷だらけでした。皮膚が切り裂かれ、顔もローマのむごたらしい鞭によって破壊され、もはやかつてのお優しいお姿は見えないかのような。まるで別人。おろそしいほどに傷つけられていた状態でした。その上で十字架の横木を背負って歩かなければなりませんでしたので、意識は朦朧としていたに違いありません。ご自分では担ぎきれないので、クレネ人シモンという人がローマ兵によって命令されて、十字架を担がなければならなくなりました。

 マルコによる福音書15章を見ますと、この人のことが少し詳しく説明されています。マルコ15:21。

 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。

 これは教会内の皆が知っているアレクサンドロとルフォスの父という意味です。中心的メンバーです。「彼らのお父さんはここでイエス様と出会ったのですね。」という含みがあるのだということを読み取ってください。使徒言行録13章を見ますと、さらにキレネ人シモンが出てきます。使徒言行録13:1。

 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。

 ニゲルというのは肌が黒いという意味。シメオンというのはヘブル語でのシモンの呼び方です。アンティオキア教会の指導者となっていったのです。このシモンはイエス様と言葉を交わしたわけではありません。しかし、主イエスのお姿から多くを聞き取った人です。究極に追い詰められた時に、人間の本質というか本音というものが見えてくるものです。こんなにボロボロにされて、しかも、ご自分が罪を犯したというわけではなくて、神への冒涜罪と、ローマ帝国への反逆罪という濡れ衣を着せられて、結局は不当な判決によって十字架につけられてしまう。怒りの叫びというものが出てきてもおかしくありませんし、むしろ、静かに何も言葉を発しないということが不自然でたまらない。

 キレネ人シモンがどのあたりで、主イエスが神であると悟ったのかは記されていないのでわかりません。十字架を共に担いでいる時にすでに主イエスが神であることに気づいていたかもしれませんし。後の話かもしれません。しかし、彼はイエス様の十字架への道の一部始終をみていました。主イエスのとなりで。故に、後にゲッセマネの園から、その前から、最後の晩餐から、いやもっとその前から、主イエスは人類の救いということを視野に入れてくださっていて、救いのために、すなわち愛するために。神を人々が見出すために。罪から逃れて復活するように。羊飼いのいる羊として歩むことができるように。救いという一つのことに向かってひたすらに歩んでおられて主イエスを理解したのでしょう。

 聖書の神の言葉というのは不思議です。自分の人生と、このイエス様の歩みと交錯する場面と言いましょうか、クロスして、そこからつながって、つながり初めて信仰によって神経が繋がりはじめると、この聖書に書かれている言葉が隅々まで息を吹き返したかのように呼吸しはじめて、自分と関わりのある言葉として、そこにラインが引かれたかのように、つながりが見いだされて、神の心が染み込んできます。ああ主の心がこんなところにも、かつても今も、これからも、と見えるようになるのです。

 苦味をまぜたぶどう酒をローマ兵が飲ませようとしました。これは鎮痛剤としての役割があります。しかし、主イエスはそれを飲まれませんでした。痛みのすべてをお引き受けになられるためです。私は、この鎮痛剤の役割のあるぶどう酒を飲まなかったというところに主イエスの心があらわれているのを感じます。イザヤ書53章にイエス様のことが書かれています。その箇所をお読みします。

 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

 軽蔑されて捨てられる痛みをすべて味わうため。この十字架の場面のすべてを味わいつくすために、鎮痛剤を拒否されたのです。

 私達の病い、痛み、罪を負われた。それゆえ、私達が苦しむ時に、主イエスと出会うことができます。主イエスがすべて背負ってくださっていますので。その重荷を主が背負ってくださっているというところで、自分の人生と主イエスの命とがクロスします。重なり、出会い、接ぎ木されて、人生が変えられます。それは、皆様が痛みを負っている時かもいしれません。病を抱えている時かもしれません。自分の罪に悲しんでいる時かもしれない。しかし、主は間違いなく私達の病い、痛み、罪を背負ってその痛みを背負うという覚悟ゆえに、苦いぶどう酒をお飲みにならなかった。それは私が味わうべきものをすべて味わうためです。

 イエス様の心を理解できず、傍観者として過ごした人。いや傍観者ではなくて、むしろ主イエスの心を踏みにじるような発言をした人。通りかかった人、律法学者や長老たちは、イエス様のその眼差しが理解できませんでした。しかし、その心を理解しない一人ひとりのために、主は十字架におかかりになられています。マタイ27:40、42。

 「神殿を打ち壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」

 イエス様のご行為、例えば、苦いぶどう酒を飲まなかったというその一つのことを通して、私達は現代においても、電撃のように主イエスの言葉や全能の神の御計画やその思いが響いてきます。一つの行動を見ることで聖書の神様のご行為がすべてつながってきて響き渡っていくのです。

 しかし、目の前で主イエスが十字架におかかりになられて、そのお姿をもってその愛を一つ一つ証ししておられるのに、そこから悟るものを見いださない者たちは、自分の発言一つ一つが、サタンの発言と重なっていきます。サタンはキリストを十字架からおろそうとする。救いが達成されないように、「イスラエルの王なら今すぐ十字架から降りてみよ」と。1つ聞いて、1つみて、10も20も悟っていく人と、目の前にキリストをみても、盲目のママであり、悟ることもなく、サタンの言葉に自らをあわせていくもの。

 その対比が十字架の前にあることを見てください。キレネ人シモンと、祭司長、律法学者、長老たちです。

 キリストのご行為一つ見て、そこから悟り、聖書の言葉がつぎつぎとつながっていくようにと、祈ります。キリストのご愛が、この気付きの連鎖の中にいれるご愛であること。言葉一つから、主イエスの十字架への姿勢一つから、壮大な主の救いの御計画を悟ることができますように。聖書が光を放つように祈ります。アーメン。