マタイによる福音書 27:45〜56 「お見捨てになったのですか?」

石井和典牧師

 イエス様が道を開いてくださいました。天の父とつながることができます。祈りが届きます。主イエスの御名によって。エルサレムの神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれました。神様と人との間を隔てていたものがすべて取り除かれたということです。

 ですから、主イエスの十字架以降、私達が主イエスの御名により頼んで信仰によって祈る祈りは、全て主なる神が聞いてくださっているということです。

 しかし、この状態に民を導くためには、激しい戦いを経る必要がありました。人間がうけるべきものをすべて主イエスがお引き受けになられるという戦いです。そのために、神の御子である主イエスが、ひととき神から捨てられるということを経験しなければなりませんでした。私達が罪の結果受けなければならない裁きは、「神から捨てられてしまう」ということでした。それをすべてお引き受けになられました。

 罪の結果どうなるか。何度も言いますが「捨てられる」という結論にいたります。罪というものを甘くみてはなりません。神様の方向を向かず、自分の方向にむかって行ったら、滅ぶのです。捨てられるのです。イエス様がこのようにおっしゃられていることを真剣に受け止めなければなりません。ヨハネによる福音書15:6〜7。

 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 命の水に溢れて、その枝が実をならせるような状況でないと確実に枯れるということです。本当に神から来る命の水で満ちていますか?枯れないようにその扉を開いてくださったのが主イエスです。その扉は、十字架によって開かれました。それは具体的に私達の行動に落とし込んでいきますと、主イエスの名によって祈ることができるようになったということです。この祈りの中で命の泉を味わい満たされていくのです。水が流れる管がつながったのです。逆にいうと、祈りを失っているという状態がいかに恐ろしいのかということです。罪の結果祈りを失うわけですが、その結果枯れます。自分の思いに溺れて、神の方に向かうのではなくて、滅びに向かっていく。枝には水が、命が満ちていなければ実りません。

 罪の結果どうなるのかということを、主は十字架の上で見せてくださいました。「渇く」のです。渇きに渇いて、干上がって命を失うのです。ヨハネによる福音書19:28。

 その後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。

 主は神から離れた結果被ることになった「渇き」を背負ってくださっていました。「渇き」を背負ってくださったがゆえに、「渇き」から解放されていきます。

 主は人を創造されて、このようにご命令くださいました。人間を創造された場面です。創世記1:28。

 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 だから、主がお喜びになり祝福されて人は命に溢れて、植物が繁茂するように命から命を生み出して次々と増えていくのです。命が溢れて満ちてくるから、その内側から溢れ出るものによって他のものをも満たし続けることができるのです。

 主からの呪いを受け取られた結果、カラカラに干上がって命から遠く、むしろ主に捨てられたものの姿をとって「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。

 この無残な死の姿をキリストが通られたことが、人類のためであるということは、そこに居合わせた人たちにはわかりませんでした。むしろ、「エリ、エリ」とイエス様が叫ばれたことによって、エリヤがくるのではないかと思っていました。エリヤは皆にとってスーパーヒーローのような扱いでした。苦しむ義しい人を見たら天から助けにくるという伝承が皆の間で語られていた。そんな自分たちが勝手に作ったストーリーによって主イエスのこの救いの業を捻じ曲げるようにして見ていたのです。だから、酸いぶどう酒を含ませてイエス様に飲ませようとした人に、「待て」と言ってやめさせているのです。というのも、この酸いぶどう酒によって苦しみが軽減してしまったらエリヤが助けに来ないだろうからという、わけのわからない話を傍らでしていたのです。

 人間の罪というのは本当に恐ろしいものです。見なきゃいけないものを見ないのです。イエス様の全人類への救いの業をこそ、人は見るべきです。しかし、自分たちが考えている言い伝えや思い込みに縛られて、見るべき救いを見ないのです。すぐ近くで傍ら、救いの御業が行われているのにです。全く違うものとして見ていた。重犯罪人イエスが自分の罪によって神の裁きを自分の罪のゆえに受けているなんとも悲しい話だ。イエスは義しい人間であったという噂が立っている、もし義しいのならば、エリヤがくる。そのエリヤをこの目で確認してやろう。そんな魂胆ですた

 神殿の垂れ幕がさけて、主なる神との関係が回復されて、生命の水に預かる主との交わりが提供されている。それが、全世界を変革させる力であります。しかしそれを受けずに、その近くでその周辺で勝手な自分達の議論に明け暮れている、どこか聖書的であるようには見えるけれども、神の思いと全く別の道をいっているというのが人間の姿です。

 神殿の垂れ幕が避けて、神と人との間の隔ての壁はもうないということ。これは半端ではない、尋常ではない出来事です。当時の第2神殿、ヘロデ神殿にかけられていた垂れ幕は、一説によると高さ18メートル、横9メートル、厚みは手のひらほどもあったのではないかという説があるくらいです。おろそしく大きな壁のような垂れ幕です。年に一度だけ大祭司が内側に入り、神のご臨済にふれるというものでした。しかし、もはやそのような隔てはなくなり、主イエスの御名を通してすべての民が主なる神との交わりをもつことができるようになりました。

 だから、主イエスのもとに集まり続けるものは命が溢れてきます。実りが実ってきます。思い込みとか先入観とか偏りとかバイアスというものに支配されていた人たちが解放されて、神の方を見ることができるようになります。すると、必然的に命がその霊に満たされて、心が満たされ、心が満たされると人生のすべてが変化しいきます。その変化を経験しているものがキリスト者というわけです。

 私はこの十字架のもとにいた者たちは、私達が経験する様々な信仰の場面を言い表していると思います。十字架にかかられたキリストを適当に自分のメガネで遠くから眺めるようにしてみていて、自分がキリストを判断していたような時。イエス様の言葉によって変えていただかなかったら、ずっとこのような、自分のメガネという偏りに支配されて命の傍らを通りすぎてしまうような歩みしかできなかったのです。しかし、出来事が起こり、導きを受け。27:54のようになるのです。

 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 あの十字架の横の傍観者ではなくて、主イエスの痛み、主イエスと神との断絶、命から離されることの恐ろしさ、罪の中にいる絶望、枯れて、枯れて、渇いて、渇いて、滅びへ、というこの恐ろしさからの解放を頂いくものとなるのです。

 命から命です。肉が滅びゆくときにおいても、この命がキリストの命とつながっていることを味わうのです。

 キリストは渇きに渇いた姿をとって、命から離されて死にいたりました。しかし、ここから復活なさいます。クリスチャンって本当に恐ろしい人たちですよ。復活を信じるのですよ。もうだめになったと思ったそこに命が吹き込まれることを信じるのですよ。

 最近アイビーという植物を下さった方がおられて、私の育てかたとか水やりとかが悪いのか、葉っぱが結構落ちるのですが、ふと目を上げると新しい芽が太陽に向かって次々と出ている。たくさん枯れて落ちた葉っぱと命に溢れた葉。

 クリスチャンって恐ろしいです。枯れ果てたものが復活すると本気で信じている人たちです。私の人生枯れ果てても、あの人の人生枯れ果てたように見えても、渇いても渇いても、復活できる。そこに主の命が注がれれば、十字架への信仰と信頼さえあれば、復活できる。そのように信じる。キリストと結びつくことで、水が供給されて復活すると信じます。アーメン。