ヨハネによる福音書 15:1—8 「実を結ぶ」

石井和典牧師

 今ここで命とつながって満たされて、実を結んでいくということが弟子たちの共同体で起こることです。最後の晩餐で主イエスが語られた共同体のビジョンというのは非常に力強いものであります。(ヨハネ福音書13〜17章)弟子たちがこれからどんな歩みをしていくのかを指し示します。

 イエス様は、十字架の場面で裏切ってしまい散り散りになってしまうこの弟子たちに対して、彼らの不徹底を責めるのではなくて、イエス様のお力で満たして、聖なる共同体をつくりあげるための道をご準備だったのです。

 洗足木曜日の礼拝を思い出してください。イエス様が奴隷の立場に立って仕えてくださったことを。共同体をゼロから作り上げるために、ご自身の力を注ぎだされたということですね。この部分が良い、ダメとか、主イエスには全部見えておられたでしょう。裏切るものもこの中にいたのですから、それも見えていたでしょう。しかし、主イエスはそれらを「すべて知った上で」、ご自分が仕えることだけに集中されて、この共同体に仕えつくされたのでした。だから、重要な情報を欠けることなく、このヨハネ福音書13章〜17章までの間、最後の晩餐でお語りくださっているわけです。

 ここでつまずく、ここで裏切る。わかっているのですから、まずその部分を咎めるというか、指摘して、それから本題にと考えたいというか。もう、普通の人間だったら、自分を殺そうと考えているとか吊るし上げようと考えているとか、そういう思いをもった人間がそこにいたら耐えられないですよね。

 しかし、この晩餐の中にはいたわけですよね、ユダが。主イエスはそのことがまるでないかのように、受けるべきものをすべて手渡して、愛の中の愛を見せてくださって、必要な神の言葉でそこにいるすべてのものを満たそうとしてくださったわけです。

 聞いているか聞いていなかは別として、最高の愛を示してくださった。それが弟子の足を洗うという行為でした。

 もっとも高いところにおられる方が、誰よりも低く降られたのです。この高低差こそが大事です。私は二十歳のときにクリスチャンにしていただいたのですが、そのときに私にひざまずくように仕えてくれた友がおりました。考えてみれば、彼らキリストの弟子たる、僕たる、奴隷のように仕える行為があって、そこに神の霊が働き、わたしの回心ということがあったのだと思い起こします。ああ、なるほど主の御心がそこにあったのだ、そこに光が注がれたのだと思い起こします。主イエスの霊に触れられて清くさせられているその人が、奴隷のように私の下に立つようにして仕えてくださったのです。

 主イエスはこのように最後の晩餐で宣言してくださいました。ヨハネによる福音書13:34〜35。

 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 この主イエスの言葉を現代においてそのまま経験させていただいたのが、この私が教会に導かれたときに経験したことでした。本来ならば私よりももっともっと神の言葉に精通されて、私よりも清くさせられて愛に満ちているその方が、高貴な、高いお方が、私のようなもののためにひざまずいてくださった、それがあのクリスチャンとの出会いでした。この高低差によって主のご愛が流れ出るわけです。そして、たしかに神の国がここにありということを体験して、あ、この人は主の弟子なのか、すばらしい、ということになるわけですね。

 本日のぶどうの木のたとえで、主が実りと言っておられるのは、まさに今言ったことです。愛が実現する。仕えるということが実現する、そこに命が溢れて、増えて増え広がるということです。

 ぶどうの木全体がイエス様。その枝がわたしたち。その枝がぶどうの木につながっている限り、命の水が供給されて満たされていくわけです。しかし、どのようにつながっているのかというのが実際に大事なことであることが、この箇所を深く黙想していくとわかってきます。

 ここでイエス様が言っておられるのは、4節の言葉に注目してもらいたいのですが。「わたしにつながっていなさい。」と言うことです。これは他の翻訳だと「とどまりなさい」と書いてあります。ギリシャ語で特別な言葉が記されています。「とどまる」という翻訳の方がその真意に近いと思います。この言葉は、実はヨハネによる福音書では非常に多用されていることがわかります。多用されるということは、主イエスが強調なさりたかったことであると理解して良いと思います。ヨハネによる福音書1:32〜33。

 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。

 聖霊が主イエスに注がれて、「とどまる」のです。とどまるということは、どういうことかというと、「継続的に一緒に、ずっと一緒に」とかそういう意味ですね。また、イエス様は弟子たち不信仰を咎めるときにこのように言っておられます。ヨハネによる福音書5:38。

 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。

 また、同じ「とどまる」という言葉はヨハネによる福音書6:56で使われています。

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。

 「いつも内にいる」という言葉が「とどまる」というギリシャ語と同じです。

 また他にも8:31、35。

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。

 とどまるということは、一時ではなく、いつもいつまでも、片時も離れずという意味があることに気づくことができます。

 中国伝道の父であるハドソン・テーラーが見出した真理は、ヨハネによる福音書6:35。

 わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない。

 彼はこの箇所をギリシャ語で読んでいて、ギリシャ語の現在時制というのは、習慣でし続けるという、継続の用法があるということに気付いて、そのことを自分はいままで読んでこなかったし実行してこなかったということに気付いて、回心するわけです。たった一時、主イエスのところに礼拝の時だけ行くのではなくて、片時もはなれずに主イエスのもとに行き続けることをこそ主は求めておられるのであり、一度信じてそれで完全な信仰に達したということではなくて、御言葉を聞き直して、信じ続けるものこそが渇きを知らない信仰生活に望むことができるのだと気付いたわけです。(『ハドソン・テーラーの生涯とその秘訣』いのちのことば社。)

 ということは、一時だけ主のところに来て、週日は別のところにということがとどまっているということではなくて、片時もはなれずに主イエスにとどまり、内におりつづけるものが実を結ぶのであるということが主のおっしゃりたいことであり、とどまりつづけて実を結ぶというところまでいかないかぎり、その枝は、農園の農夫であるお方によって取り除かれて手入れをされてしまうということであることが読み取れます。

 だから実を結ばない状態にあるのであれば、一日も早くそのことに気付いて、実を結ぶ状態になるように、主は願っておられることがわかります。実を結ぶということがどういうことかというと、ヨハネによる福音書15:8にも示されています。

 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 主イエスの弟子となるということはどういうことか。最後の晩餐で皆にお仕えになられた、あの主イエスのように、あの奴隷のように働かれたその人の後ろについて、その御方以上に自分を低くして、他者に仕えることです。主がどのようなお方なのか、主に繋がっていればわかります。

 毎日礼拝堂に来て、主の御前にひざまずいて祈ればわかります、「私よりももっと低く私にお仕えくださっておられる」のが、主であられると。その方の前にもっともっと低く仕えるということが、弟子としてついていくこと、片時も離れず主とともにあることであると。しかし、主はそのような主の弟子となるものに、約束してくださっています。ヨハネによる福音書15:7。

 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 人々にお仕えくださっている主の後ろで、主の心に合わせて、主の願いを願うなら、それは叶えられる。なんたる恵みでしょうか。民のために祈りましょう。アーメン。