ヨハネによる福音書20:1−18 「主を見る」

石井和典牧師

 主イエスの復活を味わい、祝い、証言するために皆様は集められました。明確な主の目的が聖書を通して聞こえてきます。偶然にこの私の声を聞いているのではなくて、すべて全能なる主の導きです。

 復活を皆様がご自分の内側で味わい、霊的に復活し、また後の肉の復活をも信じ、この肉体がどうなろうとも希望を失わずに歩みつづけるのです。

 霊的に復活するということはどういうことか。それは見えなかったものが見えるようになるということです。主イエスの死を前にして、見えなかったものが見えるようになった人、霊的に復活した人、それが本日登場しますマグダラのマリアです。

 彼女は自分の肉眼の目で見えること、目の前で起こっていたこと、そして人々が話していること、またこの世のこと。それらにすべて心が奪われてしまっていて、見るべきものが見えなくなっていました。

 師であり、主であるイエス様が亡くなられたのですから、無理もありません。確かに、十字架から降ろされる主イエスの遺体を見たのです。マタイによる福音書27:55〜56にこのように記されています。

 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 イエス様の肌が引き裂かれ、見るも無残な姿にさせられて、ボロ雑巾のように変わり果てて、命を全く失い、十字架で絶命された姿を見たのです。死んだことを確認するための槍が脇腹に突き刺され、たしかに死んだことを指し示す水が脇腹から流れ出ました。血液が凝固しはじめ血漿が流れ出たのだと言われています。すなわち、絶対に医学的にはもとにもどらない状態にまで、完膚無きまでに壊された主の体がそこにありました。

 立ち上がることなどできない、一ミリもそう思えない終わりが宣言されてしまいました。項垂れて(うなだれて)、敗北感と喪失感の中に膝からくずおれる状態であった。キリストの共同体はもうすべてが終わったのです。

 決して人を呪うことをしなかった主イエスの愛が確かに示されました。しかし、そこから何かが起ころうなどとは思えない死が横たわっていました。何も動かないと皆が思うような現実でしかなかったのです。

 お一人で息を引き取られたその絶対的な孤独に、どうしても寄り添いたい、愛を確かにお示しくださり、この上なく愛しぬいて、先生でありながら奴隷のようにわたしたちに仕えて下さった方に、せめてものひととき、寄り添っていたい。ご遺体であっても、そのすぐお近くにいたい。

 ちょうど、わたしたちが家族、教会員、友人、大切な人をお送りし、最後の最後までそのご遺体のそばにおらせていただきたいと願うのと同じように、ただその時間をどうしてもご一緒に過ごさせていただきたいという思いしかなかったと思います。

 しかし、主はすでにご自分の復活を預言してくださっていました。マルコ福音書10:32以下を読みますと、非常に詳細に事の顛末を教えてくださっていました。エルサレムに入る前に宣言してくださっていました。

 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 イエス様は、はっきりと十字架と復活を宣言してくださっていました、事前に。しかし、マグダラのマリアというイエス様に対するあふれるほどの愛をもっていた人にも信じがたい出来事でした。死人がよみがえるということは、人間の限界を超えている出来事です。合理的な判断は、横穴式の墓の石が誰かの手によってどかされて、誰かが主のご遺体をもっていってしまったということでした。

 しかし、暴動が起きることを心底恐れていたピラトです、墓に兵隊をつけないはずがありません。墓は武装した兵隊が命がけで守り、ローマの印が記される蝋でシーリングがなされて、これが破られようものなら、兵隊はお咎めを受けますので、彼らは命がけでそれを守らなければならなかったのです。

 だから、このイエス様の墓が開いているなど普通に考えてもありえないことでしかありませんでした。

 どうにも回らない頭でやっと絞り出した答えが、誰かが遺体を持ち去ったのだということでした。しかし、それは間違っていました。

 人間の予測は常に間違え続けますね。

 神様がマリアをこの場所に導かれたのは、人間にはどうしようもない出来事、どうにも超えられない壁が、神の力によって破られてしまうということを見せるためです。神の力によって打ち破られないものはないと、彼女が信じて、力強く歩み始めるためです。

 イエス様の墓の石をどかすだけでも本来は絶対にできないことです。しかし、主はいとも簡単に、それがご自分のご意思であるならば、それを成し遂げるお方です。人間の想像を絶対的に超えていかれます。復活という出来事を確実に起こしてくださった。その記録と痕跡と証拠を、至るところに残しに残して、主はご復活なさいました。

 亜麻布が丸めておいてあります。遺体を包んでいた布です。イエス様はお生まれになられたとき、街のはずれにある家畜小屋の近くに備蓄してあるこの死人を葬るための布でくるまれてお生まれになられました。亜麻布が、今イエス様ご自身の手によって丸められて、おいてありました。復活の体を得られて、別の次元にすでに移されているお姿を次々と人々にお見せくださいました。

イエス様は全能なる神様の独り子です、この亜麻布を丸めておかないことも、処分することもできたでしょう。

 しかし、これはあえて置かれているわけですね。復活のメッセージだからです。イエス様を追いかけて、この場所にやってくるマリアのことや、その知らせを聞いて、走ってやってくるペトロやヨハネのことを思ってメッセージを残すためですね。羨ましいとすこし思います。わたしもこの肉の目でこのイエス様が丸めておいてくださった亜麻布を見たい。そして、この脳髄に記憶して、イエス様が私にメッセージを下さっていたなぁと反芻しつづけたい。見れないことが残念に思います。

 しかし、イエス様が私にメッセージをくださった痕跡と意図というのは、この聖書の中に、また聖書を通して語られ変わっていった私の人生の中の一つ一つの出来事の中に、実際はたくさんあります。

 亜麻布を丸めて、この弟子たちにわかるようにメッセージをくださいました。

 私の人生に関わってくださって私にだけわかるようにメッセージを実際にはくださっている。それは皆様も同じです。

 主は実は、わたしたちにメッセージを伝えるために、そこに出来事を、そこにものを、そこに人をおいてくださっていたのではありませんか。

 メッセージを伝えるために試練に合わせられたのではありませんか。ご自身の思いをわたしたちに伝えるために、今、この時もメッセージを下さっているのではないでしょうか。本気で、目を開いて探したら、ペトロとヨハネのように走って、そのメッセージのもとに行こうとすれば、それが実際は見えるんじゃないでしょうか。

 見ようとしていないから見えないだけなんじゃないでしょうか。また、自分の思い込みの中に落ち込んでいるから見えないのではないですか。墓の石が象徴するのは、「絶対的にわたしたちの行く手を阻みどかすことができない壁」です。その墓のどかせない石ばかりをみていても仕方がありません。主を探してください。主はその石をどかすことがおできになられます。主のご性質、主のお力を見てください。

 視点を変えたならば、その先に、主のメッセージはすでに置かれていて、主は待っておられるのではないでしょうか。

 マリアは自分の名前をイエス様が呼んで下さって、そして「はっ」と気づきました。それまではイエス様を園丁だと勘違いしていました。そして、見えるようになりました。見えるようになったのですから、その出来事をのべつたえるようになりました。

 あなたの存在そのものをあらわす、あなたの名前を主は呼んでくださいます。それを聞くまではおそらく証はできません。証は立ちません。ものが見えていないからです。しかし、私の名を呼んでくださって、私の存在中に、ここに主が語りかけてくださっていると実感した時から証はたちはじめます。見ているものを伝えるだけですから。マグダラのマリアの喜び、復活を目の当たりにした喜び。その主が、私の名を呼んでくださり送り出してくださる喜び。しっかり見ましょう。ご自分の歩みの中に主の御手を、そこからはじまります。アーメン。