詩篇23:1〜5 「主は羊飼い」

石井和典牧師

 詩篇23篇はダビデの詩です。ダビデは「逃げる場所は主のもとにしかない」という状況に何度も追い込まれました。頼ることができる方、いのちを預けることができるのは主しかおられない。そのような四面楚歌の状況を通らされました。それが彼の王への道でした。

 彼には敵がいました。サウル王です。サウル王はダビデの前の王です。主はサウル王の代わりにダビデを王とすることをお決めになられました。預言者サムエルを通してダビデは王として立てられていきます。

 ダビデの見た目も能力もさほど魅力的ではなかったようです。というのもダビデの父であるエッサイが、預言者サムエルが訪ねてきたときの態度でわかります。預言者サムエルは王を見出すためにやってきました。父であるエッサイは8人の息子たちの中の7人だけを並ばせてサムエルの前におらせます。この中から預言のままに、王を選んでくださいと申し出ます。

 エッサイの目には末の息子ダビデは王の器ではなかったということです。しかし、神様が選ばれたのはこのダビデでありました!

 主は羊飼いであるダビデを選ばれたのです。というのも、この詩篇を通して、神様と人間との交わりというものがどういうものか、世界中の民が知ることができるようにです。我々は、ダビデの詩篇を通して信仰の糧をいただくことができます。この視野というものが神様にはもちろんあったことでありましょう。

 しかし、エッサイにも預言者サムエルにもダビデ自身にも、主の思いはわかっていなかったのです。そして、今私達はわかっていますが、何よりこのダビデこそがイエス様のご先祖なわけです。ダビデの子孫からメシアが与えられるのですから。

 この羊飼いダビデから、メシア。メシアから、わたしたち教会。というラインが見えてきます。しかし、サムエルの前に立っている7人とエッサイ、野原にいるダビデ、彼らにはこれらの主のご計画は見えていません。

 主のご計画が実現して、その結果としてわたしたちが集められて、異邦人である我々が、ダビデの信仰から大きな学びをすることができているわけです。これこそ、主のご計画です。主のご計画というのはあまりにも偉大だといことを思っていただきたい。その偉大なご計画の前におらせていただいているわけです。だから、何一つ失望してはいけません。あなたは主のご計画の只中にいまいます。だから、ものが少しばかり見えるようにならなければなりません、信仰の言葉によって、そうでないと道を誤り続けます。

 

 預言者ナタンのメシア預言の中のダビデに少し触れましょう。サムエル記下7:8以下。

 わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。

 ダビデは主の牧場の羊の群れの後ろにいました。しかし、主はそのダビデに目を止めてくださったのです。「群れの後ろから私を見出してくださるのだから、主は決して私を見失うことはない。」「どんなに人に攻撃を受けようが、主だけは私のことを覚えていてくださる。」ダビデはその主の視線をいつも信じ、感じ、実感している、だからこそ、本日の詩篇の言葉につながっていくのです。詩篇23:1

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

 何も欠けることがない。一切欠けがない。

 羊飼いがいて下さるおかげで、良い羊飼いなので、羊の群れの一番弱いもの、一番うしろにいるもの、そのものをこそ慈しむ心で、群れを導いてくださっている。この御方がおられるということだけが重要である。

 一番うしろで弱そうにしているそのものに対する視点を持っておられる羊飼い。ダビデは一番うしろでその愛に預かったのです。

 だから、彼は見るべきものを見ているゆえに、「何も欠けることがない」と断言できるのです。見るべきものを見ているからです。見ていなかったら見えません。満たされに満たされた満足がここにあります。

 羊飼いの愛に気付いたときに満たされるのであり、他の何かで満たそうとすればするほど欠けと、渇きとを覚え、そのかけと渇きはどんどん増殖していって、貪欲につながっていきます。良い羊飼いの愛というのは、イエス様が教えてくださった愛です。ヨハネによる福音書10:11。

 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

 最も後ろで弱そうにしているその羊のために命を捨てる羊飼い。それが群れのリーダー。だから、「何も欠けることがない」とダビデは断言しています。

 「欠けがどこかにある」と思っているうちは、羊飼いである神をしっかり見ているとは言えません。どこか、別のものに視点がいっているから、満足がないのです。この羊飼いのもとに帰ってくることにだけ満足があります。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」からです。

 先程のナタンのダビデに対する預言の中にはすでにこのようなことが書かれていました。サムエル記下7:9

 あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。

 ダビデが羊飼いである神様とともにいるならば、無敵の、無敗の勝利を与え続けると約束してくださっています。どんな敵であろうともことごとく断つと。

 そして、サムエル記7:13。

 あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。

 永遠の王座を、あなたの家、あなたの子孫に与えるとダビデに約束してくださいました。その永遠の王座を据えられたのがダビデの末裔であるイエス・キリストです。

 主は、これからもこれまでも永遠に、羊飼いとして守り続けてくださる。わたしたちはこの主の牧場から迷い出ないように、羊飼いをしっかりみてついていく。すると、もはや何も心配する必要の無い、青草の原で憩うことができる。詩篇23:2。

 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。

 私、ウォーキングをしながら服部ビオトープという飛行機が着陸してくるのが見える公園で一休みするのが大好きなのですが。あの芝生が全面に敷き詰められた青々とした広場で休むと本当に心の底から癒やしを感じます。人間の脳髄にこの青草の原というものがインプットされているように感じます。この青草の原で主はわたしたちを導いて、命のもとに導いてくださると。皆様の内側にも大草原の中を走り回って清々しい思いに浸っていたそんな瞬間があるのではないでしょうか。思い出してください。主に従うということ、羊飼いを見出すということは、そのような草原で永遠に憩い、命が常に注がれ、力が注がれて、決して尽きることがない、枯れることがない命に満たされるということです。魂が生き返ります。

 ダビデはこの地で、この世ですでにそれを感じ取っています。しかし、どうでしょう。彼の生涯は王として預言者によって連れ出されてから13年間も先代の王であるサウルに命を狙われ続けるという悲惨な日々を送らなければならなかったのです。王宮に使えるために召されたダビデはサウル王の近くで竪琴を弾く役割を与えられましたが、王に悪霊が巣食い何度も王から槍が飛んできました。悪霊に支配されるということがどういうことか見えます。攻撃に至るのです。善意の皮をかぶっているように見えて、正しいことをしているかのようにみせて、攻撃にいたる。表面上は良きものを装って、目には見えませんが、周りに毒を撒き散らし、その毒によって人を死に至らしめるものです。

 自分のすぐ近くにいる権力者、生殺与奪の権を握っているような、かつての王政の王。その絶対権力者がすぐ近くでダビデを殺そうと狙っているのです。もう命は無いに等しい。そんな状況。何度槍を投げつけても殺せないので、イスラエルの宿敵であるペリシテ人の中に行かせて、そのペリシテ人によってダビデを殺そうとします。ペリシテ人の男性生殖器の皮を100枚もってこいとダビデに命令します。その要求にダビデは200枚の皮をもってきて答える。すると更に火に油を注ぐようにサウルのダビデに対する警戒は強くなっていき、隙きあらば亡き者にしようとするようになります。

 毎日毎日命を狙われているような状況です。耐えられますか。毎日目が覚めると今日は無事で良かったと、寝るときも今日は無事でよかったとため息をつくような現状です。しかし、ダビデはそれらすべてを主を讃美するために使ったに違いありません。

 「神よ、感謝します。今朝も私を守ってくださり感謝です。」

 ダビデはこの苦難のゆえに、自分の意思を、心を完全に神の御前に注ぎだし、委ねるように成長させられました。そして王となりました。自我が打ち砕かれて、自分に死に、生きたわけです。詩篇23:3以下。

 主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

 今日、明日、自分の命がどうなるかわからない。しかし、そこでこそ、青草の原で憩うことができる自分を見出すのです。そこでこそ、主の鞭、主の杖を見出すのです。そこでこそ、食卓を今日も整えてくださる主を見出すのです。油注ぎを与えてくださいます。聖霊が降り注ぎ、心の内に喜びが与えらます。

 明日、死ぬ、しかし、その瞬間、青草の原を見出すのです。それが羊。アーメン。