創世記 1:3 「光あれ」

石井和典牧師

「トーフヴァヴォーフー」と記されています。「荒れ地で何もない」そのように翻訳できます。それが混沌です。そこに主が「光あれ」とおっしゃられて光があると。そこに秩序ができました。主は光を「良し」とされました。良しとされたというのは、良いとか、好ましいとか、楽しいとか、ある翻訳者は満足したと翻訳しました。神様が良しとされ、喜んで、好んでくださって、楽しんでくださった。

 光というのは、これによって人やものが、皆神に向かう、神に向かう秩序を生み出すものです。光というのは、神の「良し」に向かっていくベクトルと言い換えてもいいかも知れませんね。神の楽しみ、喜び、満足に向かっていくベクトルです。この光が注がれている人のところに、神の楽しみ、喜び、満足があるわけです。

 私に洗礼を授けてくださった牧師先生が「聖霊が注がれると、御言葉が光を放つ」という言葉を教えてくださいました。先生ご自身が神の霊に打たれて新しく御言葉を聞き直すという体験をされていたのを覚えています。今も私に強烈な印象を残している言葉です。しかし、特別な言葉でもあり、実際にクリスチャンの只中で今も昔も起こっていることであります。これまでなかなか心に響いてこなかった御言葉がある時、非常に心に迫り、自分の歩みそのものを変えていくということが起こります。

 光が注がれて御言葉が響いている状態ですね。

 逆にいくら学びを深めようとも、全く光を失っている状態ということがありえます。

 使徒であるパウロという人は、かつては闇の中にあり、光から遠い人でありました。しかし、彼は聖書の学びはよくしていました。ファリサイ派の中のファリサイ派、聖書に律法に誰よりも熱心だったと言ってるわけです。

 しかし、残念なことに光が注がれていませんでした。だから、キリストがわからなかった、というよりもクリスチャンを迫害していたのです。彼が闇の中に落ちている状態がどういう状態か、使徒言行録に記されています。使徒言行録9:1。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。

 怒りに燃えているということが、神の心と、ベクトルと光と違うということを、わたしたちは新約聖書の手紙を通して理解することができますが、彼にはそれさえも見えていなかった。冷静に見れば、聖書の光にそのまま照らせば、このサウロのかつての状態がいかに外れたものであったかはわかります。しかし、自分では気付いていないのです。闇の中にあり、闇から物事を見ていると、なかなか自分が闇に落ちていることにさえ気づかないのです。

 情欲という闇の中です。自分の思いという闇です。肉や情欲というものは、聖なる霊によってコントロールのもとにおいておく必要がありますが、暴走しがちなのが人間です。ガラテヤの信徒への手紙5:19〜20にこの肉の業がいかに問題かということが記されています。

 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前、言っておいたように、ここでも前もっていいますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 人間に備わっている欲望や、感情、情欲、そういったものが神への方向性を失って暴走すすると、それがアンコントロールなものとなって、関係性を破壊していくものになります。ここに書かれている悪徳表というのは、神との関係性を破壊するものです。また家族との関係性を破壊するものです。また友人との関係性を破壊していくものです。わたしたちは新約聖書の光のなかで、はじめのパウロの怒りというものが主の御心ではない、すなわち関係性を破壊する力、闇であったことを悟っています。

 脅迫し、殺すなどということが、霊の結ぶ実に反することが理解できます。

 彼は聖書を学んでいました。学んではいましたが、光が注がれていないので、前後不覚です。わからないのです。しかし、使徒言行録9:3。

 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。

 天からの光に打たれて、彼の肉の目は見えなくなりました。使徒9:8。

 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れていった。

 彼の人生はストップしました。神の光に照らされてです。自分がこう生きたい、すなわちクリスチャンをつるしあげたい、という欲求はストップさせられました。しかし、彼はこの目が見えなくなるという出来事を通して、光に貫かれて、光によって目が見えるようになっていきます。光によってストップさせられて、生きる方向性が変わったのですね。自らが誤っていたということを認めることができるようになって、そこから彼の人生が大きく変化していった。使徒言行録9:17以下。

 「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。

 新約聖書全体の彼の手紙をどうぞ、くまなく読み尽くしてください。もはや光に溢れています。ガラテヤの信徒への手紙に記されているような、聖霊の結ぶ実に満たされています。

 愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。

 しかし、かつてはどうだったか。争いに急いでいました。聖書を使って正しいことを主張しているんだと、邪教を取り除かなければとクリスチャンを迫害していました。しかし、主の霊に満たされるということはなかった。それゆえに、それ以前の彼の現行はまるで消えるかのように残されていません。しかし、光に照らされた後の言葉というのはどうでしょうか。今もわたしたちを光のもとに導く。わたしたちに新しい人生を与える。

 新約聖書の言葉を読んでください。光に打たれるまで自分の言葉を捨てて、黙想してください。自分の誤りを認めて従うという思いで読むことができるようになります。まさに、パウロが光に打たれた時のような心でのぞむものに、新しい人生を差し出してくれるものとなっています。

 テトスへの手紙のパウロの言葉を見てください。かつての状態からは考えられないような平安に満ちています。彼が人を殺そうとしていたなどとはつゆも考えられない言葉です。テトスへの手紙3:2以下。

 また、だれもをそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った業によってではなく御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

 そしらず、寛容で、優しく。キリストの光に打たれ、この光によって生きる方向が全く変わりました。主なる神は創造のはじめに、光を見て良しとされました。良しというのは「トーブ」という言葉です。先にもふれましたが、「良い、好ましい、楽しい」というような意味や「満足した」というような翻訳もされます。

 神がご覧になられて、満足して、喜んで、楽しむ。そのようなところへ連れ出す力、向かわせる力。それが光。御言葉が光を放ってくると、人が変わります。聖霊が注がれて光が溢れてくると、神の喜びが満ちてくる。聖書を味わい、そのとおり生きることがこの上ない喜びとなります。アーメン。

4 「トーフヴァヴォーフー」と記されています。「荒れ地で何もない」そのように翻訳できます。それが混沌です。そこに主が「光あれ」とおっしゃられて光があると。そこに秩序ができました。主は光を「良し」とされました。良しとされたというのは、良いとか、好ましいとか、楽しいとか、ある翻訳者は満足したと翻訳しました。神様が良しとされ、喜んで、好んでくださって、楽しんでくださった。  光というのは、これによって人やものが、皆神に向かう、神に向かう秩序を生み出すものです。光というのは、神の「良し」に向かっていくベクトルと言い換えてもいいかも知れませんね。神の楽しみ、喜び、満足に向かっていくベクトルです。この光が注がれている人のところに、神の楽しみ、喜び、満足があるわけです。  私に洗礼を授けてくださった牧師先生が「聖霊が注がれると、御言葉が光を放つ」という言葉を教えてくださいました。先生ご自身が神の霊に打たれて新しく御言葉を聞き直すという体験をされていたのを覚えています。今も私に強烈な印象を残している言葉です。しかし、特別な言葉でもあり、実際にクリスチャンの只中で今も昔も起こっていることであります。これまでなかなか心に響いてこなかった御言葉がある時、非常に心に迫り、自分の歩みそのものを変えていくということが起こります。  光が注がれて御言葉が響いている状態ですね。  逆にいくら学びを深めようとも、全く光を失っている状態ということがありえます。  使徒であるパウロという人は、かつては闇の中にあり、光から遠い人でありました。しかし、彼は聖書の学びはよくしていました。ファリサイ派の中のファリサイ派、聖書に律法に誰よりも熱心だったと言ってるわけです。  しかし、残念なことに光が注がれていませんでした。だから、キリストがわからなかった、というよりもクリスチャンを迫害していたのです。彼が闇の中に落ちている状態がどういう状態か、使徒言行録に記されています。使徒言行録9:1。  さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。  怒りに燃えているということが、神の心と、ベクトルと光と違うということを、わたしたちは新約聖書の手紙を通して理解することができますが、彼にはそれさえも見えていなかった。冷静に見れば、聖書の光にそのまま照らせば、このサウロのかつての状態がいかに外れたものであったかはわかります。しかし、自分では気付いていないのです。闇の中にあり、闇から物事を見ていると、なかなか自分が闇に落ちていることにさえ気づかないのです。  情欲という闇の中です。自分の思いという闇です。肉や情欲というものは、聖なる霊によってコントロールのもとにおいておく必要がありますが、暴走しがちなのが人間です。ガラテヤの信徒への手紙5:19〜20にこの肉の業がいかに問題かということが記されています。  肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前、言っておいたように、ここでも前もっていいますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。  人間に備わっている欲望や、感情、情欲、そういったものが神への方向性を失って暴走すすると、それがアンコントロールなものとなって、関係性を破壊していくものになります。ここに書かれている悪徳表というのは、神との関係性を破壊するものです。また家族との関係性を破壊するものです。また友人との関係性を破壊していくものです。わたしたちは新約聖書の光のなかで、はじめのパウロの怒りというものが主の御心ではない、すなわち関係性を破壊する力、闇であったことを悟っています。  脅迫し、殺すなどということが、霊の結ぶ実に反することが理解できます。  彼は聖書を学んでいました。学んではいましたが、光が注がれていないので、前後不覚です。わからないのです。しかし、使徒言行録9:3。  ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。  天からの光に打たれて、彼の肉の目は見えなくなりました。使徒9:8。  サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れていった。  彼の人生はストップしました。神の光に照らされてです。自分がこう生きたい、すなわちクリスチャンをつるしあげたい、という欲求はストップさせられました。しかし、彼はこの目が見えなくなるという出来事を通して、光に貫かれて、光によって目が見えるようになっていきます。光によってストップさせられて、生きる方向性が変わったのですね。自らが誤っていたということを認めることができるようになって、そこから彼の人生が大きく変化していった。使徒言行録9:17以下。  「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。  新約聖書全体の彼の手紙をどうぞ、くまなく読み尽くしてください。もはや光に溢れています。ガラテヤの信徒への手紙に記されているような、聖霊の結ぶ実に満たされています。  愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。  しかし、かつてはどうだったか。争いに急いでいました。聖書を使って正しいことを主張しているんだと、邪教を取り除かなければとクリスチャンを迫害していました。しかし、主の霊に満たされるということはなかった。それゆえに、それ以前の彼の現行はまるで消えるかのように残されていません。しかし、光に照らされた後の言葉というのはどうでしょうか。今もわたしたちを光のもとに導く。わたしたちに新しい人生を与える。  新約聖書の言葉を読んでください。光に打たれるまで自分の言葉を捨てて、黙想してください。自分の誤りを認めて従うという思いで読むことができるようになります。まさに、パウロが光に打たれた時のような心でのぞむものに、新しい人生を差し出してくれるものとなっています。  テトスへの手紙のパウロの言葉を見てください。かつての状態からは考えられないような平安に満ちています。彼が人を殺そうとしていたなどとはつゆも考えられない言葉です。テトスへの手紙3:2以下。  また、だれもをそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った業によってではなく御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。  そしらず、寛容で、優しく。キリストの光に打たれ、この光によって生きる方向が全く変わりました。主なる神は創造のはじめに、光を見て良しとされました。良しというのは「トーブ」という言葉です。先にもふれましたが、「良い、好ましい、楽しい」というような意味や「満足した」というような翻訳もされます。  神がご覧になられて、満足して、喜んで、楽しむ。そのようなところへ連れ出す力、向かわせる力。それが光。御言葉が光を放ってくると、人が変わります。聖霊が注がれて光が溢れてくると、神の喜びが満ちてくる。聖書を味わい、そのとおり生きることがこの上ない喜びとなります。アーメン。