ルカによる福音書8:22〜25 「風と波を静める」

石井和典牧師

 危機に直面させ、困難と欠乏の中で、主がどのようなお方か知る。この世で経験することは、主に至るためのトレーニング。あえて苦しみの道を通らせていただいている。だから、たしかに逃れる道が準備されています。コリントの信徒への手紙第一10:13。

 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 しかし、試練に遭わない限り、わたしたちは主がどのようなお方を知ることはできません。救いを求めなければいけない状況にならない限り、耳を開いて聞く、心を柔らかくするということが難しいからですね。盤石だと思っていたところが揺るがされて、根底から覆されて、そこから新しくされるのです。

 ということは、必ず試練は通らされるということです。そこで主を選び取るか、別の何かを選ぶのか、主は見ておられます。旧約聖書の申命記8:2、3にもこのように記されています。

 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

 「主の口から出るすべての言葉によって生きる」この道に進むために、主は民を試練に遭わせられます。その主のお姿は変わらず、出エジプトから大体1500年後の弟子たちをもまた試練に遭わせられました。

 湖のこちらがわから、向こう側に渡ろうとおっしゃられます。これは十二弟子を派遣させて宣教させるための準備とも言えます。ルカ福音書の9章の始めに、派遣の出来事が記されています。すなわち、弟子たちが使命に立つことができるようにとの、主からの訓練であったわけです。訓練ですから、力をつけるというのが目的です。信仰の力です。力を奪われるのが試練ではなくて、与える出来事となります。しかし、当初はそれは好ましいものというものではなく、避けて通りたいものでしかありません。

 ガリラヤ湖の向こう側、カファルナウムから見て向こう岸。それはゲラサ人の地方です。ゲラサ人は悪霊に支配された民であるとの恐れが彼らの中にはありました。実際にゲラサ人の地に行くと、墓場に悪霊に憑かれた人が足枷をつけられて監視されているような状態に遭遇します。ですから、この地方に行くということは、彼らにとっては非常に大きな恐怖との戦いでしかありませんでした。イエス様は、まるでさも簡単に食事をするように、「向こう岸に渡ろう」と言っておられるようにさえ見えますが、弟子たちにとってみれば、「何をおっしゃられているのか」と言いたくなるような、なるたけ避けて通りたいことだったわけです。

 イエス様は船の中で眠ってしまわれます。眠ってしまわれたときに突風が吹き付けます。マタイによる福音書の並行箇所では、このように記されています。マタイによる福音書8:24。

 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。

 ルカ福音書は突風がふいたというふうに書いてあるのですが、マタイだと激しい嵐です。原典だと言葉が違います。マタイは地震とも訳せる言葉が使われていて、これは十字架においても地震が起きたあの地震という言葉であり、終わりのときに起こる地震に対してもこの言葉が使われています。すなわち、非常に恐ろしいこの世の終わりさえ彷彿とさせるような出来事が起こったようにマタイ福音書は書いてあるということです。さらに、弟子たちは溺れそうですと翻訳されているところは、「滅びそうです」とも訳せるので、これはよっぽどのことが起こっていると理解できるわけです。

 しかし、その場面において主イエスはどのようになされているのかというと「眠っている」わけです!主のお姿、神のお姿、主の霊に預かるということはどういうことなのか。平安とは何なのか、主はお見せくださっているわけです。弟子たちはこの試練の中で、神が与える平安というのはどのようなものなのか、主イエスのお姿によって強烈に心に刻まれるわけです。全能の父に対する全き信頼に立つということはどういうことなのか。信仰とはなんなのか。

 恐ろしい悪霊の闊歩する土地に向かい、天変地異さえも想像される恐ろしい地震、嵐に出会い、散々な目にあっているという意識しかないでありましょう。「滅びそうな」現実の中で、主イエスは眠ることがおできになられます。それは、全能の父への信頼、安心感に立っているからです。全能の父は、この出来事の全てに関わり、すべてに御自分のお力を行使することができ、そのお力が行使されれば、一瞬で物事は静まっていくということが、主イエスにはわかっておられるのです。だから、嵐の舟の中で眠ることができるのです。この信頼感に生きるといことが、神の霊に満たされて生きるということです。

 弟子たちに、そのお姿をもって、強烈に信仰とは何か、弟子として歩むことを指し示してくださっていたわけですね。この平安がなければ、弟子たちがこれから経験するであろう、激しい迫害、窮乏を乗り越えることはできないわけです。しかし、この平安さえあれば、乗り越えることができます。主イエスと同じように、地震の嵐の舟の中でにいても落ち着いていられます。

 主イエスは、一声で最悪の「滅びそうな」現実を変えることがおできになられます。ルカ福音書8:24。

 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。

 気づいて、力ある御方のもとに帰らなければなりません。この御方にこそ力がったのだと思い直してそこにいかなければなりません。弟子たち自身で何ができるかできないか、そういうことを考えてあたふたしても仕方がありません。この御方のところにまず行くといことこそが重要です。そこで、心の底から湧き上がってくる本音を吐露するのです。強がらずに正直にどうにもならないことを告白するのです。「滅びそうです」と。そこではじめて主のお力がどれだけのものであるのか、私の力がいかに小さいものか。

 何もできない自分を思い知る中で、全能の主の御力を痛いほどに味わうことになるのです。主はたった一言で物事をお変えになられます。

 創造のはじめから、主は一言でものごとをお造りになられました。創世記1:3、先週ご一緒に読みました。

 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

 一言で、光を創造なされ。この光があらゆるところに例外なく、存在する。光があるということがマスタープログラムといいましょうか、基本の基本。わたしたちがそれを見ていないだけです。無いかのように思い込んでいるだけ。光を見出し、そこに神の力があると信じると、そのようになる。それを信じていないだけだったのです。主イエスはですから、このように弟子におっしゃられます。ルカによる福音書8:25。

 イエスは、「あなたの信仰はどこにあるのか」と言われた。

 神様の力を体験する、神さまとつながる、神を悟る、神を知る。その光は、注がれているのです。主イエスはその光そのもの。

 危機と欠乏の中で、滅びそうな現実の只中で、決して「滅びることがない」命を見出すのです。それが主のトレーニングです。今、このわたしたちの文脈の中でこそ、「滅びることのない」命を見出すべきです。アーメン。

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