詩篇119:103 「蜜よりも甘い言葉」

石井和典牧師

 置いて眠らせて、腐らせてしまうか。味わって、目覚めて生き生きと、力に溢れて成長していくか。御言葉への態度、信仰生活。厳密に言えば、腐ってダメになる寸前に復活して再生する場合も多々ありですが、生きているか、眠っているか。どちらかです。

 詩篇119篇の言葉を読んでいきますと、信仰が生きているということはどういうことなのか分かります。本日注目しているのは103節ですが、まず119篇の1、2節に目を止めていただきたいと思います。

 119篇は全体で律法を旧約聖書をいかに愛しているのかということが書かれています。皆さんの聖書には、アルファベットによる詩とはじめに記されていると思います。これは特別な詩です。

 例えば始めに括弧して(アレフ)と記されていますね。アレフは英語のアルファベットのAと考えてください。この119篇の1節から8節までは、すべて文頭がアレフで揃えられているということです。言葉遊びのようなことがなされているということです。神を讃美し、神の律法を喜ぶことにこの作者は心踊っているわけです。

 そして、この詩を理解するために一番わかりやすいのがはじめのはじめの言葉に注目していただくということです。119:1、2。

 いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は。

 律法というのは、十戒に代表されるように「戒め」が核にあります。モーセ五書と言われる、旧約聖書の始めの5書がトーラー、律法と言われます。お読みいただければわかりますが、律法というのは単純に戒めのみというわけではありません。神様とイスラエルの民との交わりの歴史が記されています。

 しかし、これも捉え方によって変わります。律法を読んで、戒めだらけだな、こうすべきとかいう義務ばかりで堅苦しいなと捉えることもできなくはありません。

 間違いないことは神様から示された「こうすべし」ということが沢山記されているということです。

 しかし、詩篇の作者はこの律法から「こうすべし」というような「べき論」を吸い上げていくということだけではなくて、この律法から神の愛を体験し、この律法から力を頂き、この律法から知恵と知識とをいただき、この律法から生活の糧、力をいただていると実感しているのが伝わってきます。

 だから、この律法を読み上げつつ「心を尽くして」主の心を尋ね求めるという態度になっているということが1、2節から読み取れます。

 愛が溢れてしまったがゆえに、このような言葉遊びというか、アルファベットのABCに全部合わせて、すべての言葉にそって文章を形作ろうというほどまでに、思いが溢れてしまったということです。

 ヘブライ語で見ますと、全部文頭が揃っていてよくぞここまで揃えたものだとも思いますが、アルファベットを揃えた上で、このように深い内容を紡ぎ出せるものだと感動します。この詩人の文体から。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし」という言葉を思い出します。申命記の6:4、5です。

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 これは主イエスが最も重要な掟として引用された箇所です。マタイによる福音書22:36以下。

 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 イエス様がおっしゃられているのは、十戒そのものです。すなわち旧約聖書そのものです。十戒の構造は前半は神をいかに愛するのか、後半は隣人をいかに愛するのかということです。すべては、主の救いの御業が先行して救いが先にあるということを前提としています。

 すなわち、神の救いの御業、解放の御業がまず先にあって、それにどうやって全力で応えていくのかということが十戒であり、律法であり、旧約聖書であり、イエス様がもっとも重要な掟はこれだと教えてくださった内容ということです。

 救いの御業、御恩に対する報恩と、応答と捉えたときにはじめて、戒めは単なる戒めではなくて、神様に対する感謝、愛となっていくわけですね。

 もはやそれは、するべきことなすというよりも、自ら進んで応答すること、どうしてもしたくて仕方がないこと、「心を尽くす」内容となっていくわけです。

 心を尽くし愛するといことがどういうことなのかと言うことをさらに探っていきましょう。それが本日の119篇103節のこのメムの囲いの中にある第一声です。

 119:97です。

 わたしはあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。

 絶え間なくというのは「一日中」ということです。心を砕いているというのはシーハーというヘブライ語で、「黙想する」とか「祈る」とか「思い巡らす」とかいう意味があります。神の言葉に力があるゆえに、それを愛するゆえに一日中思いめぐらして、一日中そこから力を得て、一日中そこに最も大きな価値を置いているということです。イスラエルに行くと、ユダヤ教超正統派の方々が、ファリサイ派ですよね、かつてはイエス様が敵対視しておられたような方々ですが、この方々がですね、本を片手に二宮金次郎ばりの歩行読書しています。律法を読んでいるのです。その姿から「絶え間なく心を砕く」ということがどういうことか分かります。一日中思い巡らしているのです。

 さらに、この本日読んでいるひとまとまりの箇所は、「何々よりも」という言葉の集成といっていいと思います。神の言葉が、「敵よりも」知恵あるものに私をし、「師匠よりも」目覚めたものとし、「長老よりも」英知を得させ、「蜜よりも」甘いものである。わかりますか、全てに勝って、すべてを差し置いて、神の言葉を私はとります。

 神の言葉こそがすべての価値に勝って価値あるものでありますと宣言しているわけです。

 そうなると、一日中思い巡らしつづけることこそが、自分の歩みを確かにすることであり、他に優先すべきことはなにもないとうことになるわけです。

 これまでのイスラエルの歴史もすべて神の力によるものであり、その神に応答することこそ自分がなすべき最初のこと。その最初のことに全力を尽くして取り組み、その御言葉に対する取り組みによって新しい歴史がまた紡がれていく。それこそが信仰の民が喜んでなすこと、心を尽くしてなすこと。なさなければならないこと、なすべきこと、戒めをこころの底から喜んで受け入れ、その戒めを実行することを「すべきこと」ではもはやなく、全身全霊をもって喜びつつなしていくものである。

 聖書を読みつ続け、神の言葉を愛することは軍事力にもまさる。聖書を読み続け、神の言葉を愛することは金銀財宝にもまさる。この世の安定感にもまさる。「何々よりも」と詩篇の作者が本日の119篇のメムのところであげているように、どうぞ、自分で「何々よりも」とあげて手帳にメモしてください。

 イエス様が教えてくださった、最も重要な掟、それは神を礼拝しなさいということですね一言で言えば。それを「何々よりも」選び取る民に勝利があたえられる。本心から選び取るのですよ。その心は生活のすべてに現れます。

 神の言葉を選び取ることによって、神を拝することをもって「例外なく」あらゆる力に勝利する道。それが我々の道です。コリントの信徒への手紙二2:14。

 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

 アーメン。