使徒言行録 2:1〜11 「聖霊が降る」

石井和典牧師

 その日が来ます。その日というのは満たされる日ということです。「五旬祭の日が来て」というこの「来て」というのは、「満ちて」とか「みなぎって」とも翻訳できます。コップの水が満ちてきているようなイメージです。

 ペンテコステのその日に日が満ちて来た。弟子たちは聖霊による洗礼を受けるわけですが、洗礼という言葉も特別な言葉ですね。バプテスマ。これは浸(ひた)されるという意味です。聖霊による洗礼はある一部分が触れてとかじゃなくて、満ち満ちて浸りきって、どっぷりと浸かってという意味ですね。

 その日が来て、満ち満ちるのです。その日というのは五旬祭の日です。五旬祭というのは収穫を感謝する、初穂の祭りです。ちょうど麦の収穫期のはじまりなんですね。さらに、律法授受を祝う祭りでもあります。神様から啓示が下って、神の言葉が与えられた時です。神の言葉と、神の霊、聖霊の満たし、この命の満たしによって収穫が与えられていく。ペンテコステの日に起こったことはそのようなことです。

 ペンテコステはバベルの塔の物語と対比されます。創世記11章に描かれているバベルの塔の物語は、人々が言葉を一つにして円滑にコミュニケーションをしているように見えたけれども、その一致した言葉を通して人間が罪を犯しました。言葉を用い自分たちの技術で一つとなり、天まで届くほどの建物を作って神の領域に入っていこうとしたわけです。

 神様の心やご計画など全く無視で自分たちにできることでなんとかしようとしたわけですね。

 人間の傲慢を、高慢を神は裁かれました。その結果どうなったかというと。創世記11:7。

 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。

 我々というのは主なる神様、神様にお仕えする天使たちです。言葉を混乱させ、互いに理解することができないようにされたのです。これが人間の傲慢に対する裁きです。不必要な誤解や葛藤、争いが常に起こるようになりました。

 神の霊によって導かれるということは、逆に一致と理解とが与えられてくるということです。

 弟子たちの共同体は、非常に力強く神様の霊の働きがなされていきました。十字架と復活、聖霊降臨という出来事を経験する前までは彼らは何をしていたのかというと、「だれがいちばん偉いかを巡り争って」いました。バベルの塔による裁きの状態です。全能の父なる神、その独り子キリストを前にして、誰が一番偉いか、なんとバカバカしいかと思います。笑止千万。

 しかし、本気で彼らは争っていたのですよ、主の御前で。教会の中での争いはすべて同レベルの争いです。キリストの教会の中に争いが耐えないということは、恥です。「だれがいちばん偉いかを巡り争って」いた弟子と変わりません。私が正しい、あの人が間違っている。神の御前における一致に向かうところからずれているから、「聖霊の満たし」「聖霊のバプテスマ」を失っているからそういうことが起こります。

 わたしたちの中心はキリストです。キリストに向かう。ただこれだけです。

 キリストに向かうだけで一致できます。キリストはお一人だからです。

 使徒たちの共同体には「恐れ」が生じていました。キリストを恐れ敬う心です。そこには兄弟姉妹と心を合わせるということと、熱心な祈りがありました。

 主を前にした教会がどのような態度になるのか、エフェソの信徒への手紙4:1以下に記されています。 

 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。

 招きを意識して、高ぶりがすべてどこかに吹き飛んでいる状態です。まことにキリストを意識していればこのようになります。使徒たちは、十字架と復活の前で、このただひたすらに自分たちの罪の赦しを乞いつつ、お取り扱いを受けるために主の前に低い姿勢を得たのです。

 使徒たちは、十字架においてあれだけの裏切りを演じてしまった自分たちが、それでもなお招かれているという驚きの中にいました。主イエスは使徒たちの罪も汚れもすべて拭ってくださる行動をお取りになられました。

 それが、裏切った使徒たちの前になお御自分を現されたということが意味していた内容です。「主がそれでもなお現れくださったこということ。」この事実が使徒たちにとっては驚きの出来事だった。神が未だにご自身をご啓示くださる。これ以上の驚きと喜びはないでしょう。こんなわたしに神は未だに語りかけをお止めになろうとなさらない。使徒1:3以下です。

 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 主イエスの心がここに現されています。使徒たちにご自身を現し、彼らの中に御自分の業を行うのだという強い意思を持っておられます。40日に渡って彼らに現れて、彼らに神の国について証をされて、神がご支配くださるということはどういうことなのか教えてくださり、彼らを通して、世界を変えようとされておられる。人々の内側に聖霊の満たし、神の国です。だから、聖霊のバプテスマを受けなければならなかったわけです。聖霊のバプテスマというのは、使徒の2:3の言葉一つで理解が与えられていきます。

 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

 「とどまった」という言葉に注目してください。エカスィセンというギリシャ語です。これは「座った」という翻訳もしようと思えばできます。それから「居住する」というような意味もあります。すなわち、神の霊が落ち着いてそこにとどまり、ずっと一緒にその人達とともに住むということですね。神の心が、思いが、愛が、そこにいつもやどり続けている。神の言葉が彼らにつねに影響を与えている。神が彼らに常に力を与えて、霊的な食べ物を与えて、彼らのうちから神の光が輝き出てきている。神の霊がそこに座り続けてくださっている。この「エカスィセン」という言葉から黙想を広げ続けることができます。

 すべて、彼らが裏切ったにも関わらず40日にも渡って、40日というのは「完全に」という意味があります。完全に彼らに現れて現れて現れ尽くすことを主は望まれて、そこに住むことを願われた。だから、彼らは決して高ぶることができなかった。どうしてこんなわたしたちのためにココまでしてくださるのですかという驚きしかなかった。

 創世記6章において、主はノアの時代に洪水を起こすことをお決めになられました。そのときに主がおっしゃられたのは、こういう言葉でした。創世記6:3。

 「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」

 主の霊が人の中にとどまるべきではない。座るべきではない。一緒に住むことはできない。人間はつねに肉の方向に心を向け続けるのだから。そして神を失い傲慢になっていき、バベルの塔を作った。

 しかし、ペンテコステの時にキリストのご存在によって、キリストの御業によって、神の霊が人の内にとどまり、座り、住むようになったのです。新しい創造の業です。堕落してしまったものを回復なさったということです。

 人は神ではなくて、他のもので一つになり、他のもので有名になろうとして、その結果、罪を犯し神のご臨在を失い、人間の言葉が分かれ、コミニケーションが難しくなり、互いに対する理解が妨げられ、不必要な誤解や葛藤、争いが支配していくようになりました。

 しかし、キリスト、十字架、復活とともに神の支配がやってきた。人々はもはや誰が偉いとか誰が優れているとか、こっちにつくとかあっちにつくとか言っている場合では全くなくて、神の霊がやってきて住まわれるので、そこにおられるので、主の御前にただ謙遜に耳を傾けることができ、静かに主イエスが示されたように嵐の船の仲で平安でいることができるという聖霊の支配の時代を経験するようになった。

 そうなると、どうなるか、言葉はここではかつての全世界の言葉、分かたれた言葉をつかっているように見えても、一致していることを見て取れるようになるのです。使徒2:11。

 彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。

 と記されています。神の霊が降り、様々な国の言語で話し出すという奇跡が起こり、そこには非常に多種多様な違いというものが見て取れたのですが、神の業を語ることにおいて一致して、不思議な一体感があったのです。

 我々の中では何が起こっていますか?

 罪の現実があってもなお聖書を示される。あの使徒の時代のように。未だに主はあきらめておられない。わたしたちの中に座ること、わたしたちと共に住むことをあきらめておられない。生活に御言葉が根をはって、すべての領域で光を。聖書がまだ取り上げられていないということは主は諦めておられない。その情熱の前にひざまずきたいと思います。求めよさらば与えられん。主は喜んで聖霊を下さる。アーメン。