詩篇103:11〜13 「父の憐れみ」

石井和典牧師

 教会共同体に必要なことはなんでしょうか。それは神を讃美することです。神を讃美するということはどういうことでしょうか。神のご性質を思い巡らし、それを言葉とし歌とするということです。讃美に人が入ってくれば、聖書の中に描かれている「主の御計らい」を思い起こしますし、神がどのように救い出してくださるのか、信仰の民をどれだけ大事にしてくださるのか。民に与えられる祝福、恵みとはいかに大きなものであるのか。その一つ一つに触れていきますと、癒やされますし、慰めを受けて、力を受けて、神の霊のご臨在の中にすでにあることを実感して、主の民としての実体を取り戻すのです。

 ですから、私たち信仰共同体でなによりも力あることは、讃美の中に人を招き入れるということです。我々が互いに裁きあうことを止めて、互いに対して「主を賛美せよ」と叫び、実際にそのとおりに生きたら共同体に神の業が起こるはずです。「お前のここがおかしい、なおせ」ではない、「主を賛美せよ」と呼びかけ合い、実際に主を黙想することができるように、主と向き合うことができるように招くことです。私達のなすべきことは。そのときに、一人ひとりに癒やしが起こり、変化が起こるわけです。103篇1節。

 わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。

 詩篇は、共に唱和して歌うものです。ですから、「わたしの魂よ、主をたたえよ。」ということを皆で互いに宣言し合うのです。主をたたえるということに、すべてを忘れて、すべてを差し置いて集中していくと、その共同体が変化するわけです。また、ダビデの姿を見ますと、「わたしの内にあるも」に命令しています。霊肉魂、すべてに呼びかけています。すべてを注ぎだすようにして、聖なる御名を賛美することに向き合うわけですね。

 五臓六腑すべてが神に向かい、神の偉大さ、神との関係、神のデザインによって創り出されたこと、すべてを思い、賛美していく。

 賛美に入っていくことによって癒やしが起こります。神から離れ道を逸れた結果病にいたり、命から離れることになった。しかし、賛美に入り神を黙想し、神にいたり罪の道から救い出されるとどうなるかというと、命が与えられ、病からの癒やしが起こっていくわけです。神の御前に「自分がどう思うか」という自我より先に、神がどのような御方であるかという黙想に至るということが起こると、あらゆる病からの解放がおこります。

 多くの病が自我にこだわること、自分自身から離れることができないこと、自分を捨て、自分の十字架を背負って、自分に死ぬ覚悟をもって主に従うというところに立つことができなくて起こっているのを見ます。自分を捨てて神の前に行けば、問題はすべて消えてなくなるというこの賛美の世界、ここにダビデが私達を誘います。

 自分を捨てて主の御前に行きますと何が起こるのか。この詩は教えてくれます。4節です。

 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け。

 慈しみというのは、神の「約束を守る愛」です。神の言葉である聖書に記されていることを守り抜かれ、必ず約束を貫徹される愛です。この基盤の上にある生命を信仰者はすでに得ていることに気づきます。さらに、憐れみというのはヘブライ語もギリシャ語も内蔵に関する言葉と関係があります。母が子を思い、子が自分と一体であると思うような、子が傷んだら自分も痛む憐れみです。

 必ず私達に語ってくださったことを守り抜かれ、私達が痛みを負う時は、その痛みを御自分の痛みとして一緒に傷んでくださる。その御方が創造者であり、最も力ある御方であり、世界の中心である。この事実の前に、この慈しみと憐れみの冠をいただくそのところで命を受ける。命はこの御方とつながること、それ以外ではありません。この御方をいつも思っていること。この御方への信仰によって死から救い出され命へと入れられている。

 この御方のことがわからなかった時、死んでいた。道に迷っていた。この御方の思いの真ん中に自分自身を置いて、また自分の中心にこの御方に入っていただく、そうでないとき、死んでいたのです。子供が親の愛を知らずに放蕩の限りを尽くして、ついに自分を失って、父のもとにかえり、最も重要なことに気づくように、死から命への道を歩ませていただいていた。

 この御方のところに帰って来たときにのみ、鷲のような若さを得ます。

 無尽蔵の力は、神がどのような御方かを知る黙想にこそあります。

 主のもとに帰ってくる限り、自由に空を舞うための翼が授けられていきます。

 6節にも主のご性質が記されていますが、これを知るだけでも力が与えられます。恵みの御業という言葉は、ヘブライ語でツェダカーと記されていて、「正義」と訳せます。裁きというのはミシュパトです。このご性質というのは、いつもいつもそうですが、6節の前半を見てくだされば分かりますが「主はすべて虐げられている人のために」と記されています。ダビデは先代のサウル王に苦しめられました。常に命を狙われました。サウルの乱心によるものでしかありませんでした。常に彼は心不安定な状態で、弱い立場にあるダビデを攻撃し続けました。しかし、主は「虐げられている」ものを確実に守り、義を行ってくださる。見えないところで、力あるものが力なきものを踏みにじっているその様を、「人は見ていなくても」神はじっとご覧になられていて、必ず報いてくださる。その虐げられているものを守り抜くツェダカーとミシュパト。この主にいついかなる時も守られています。

 神の約束を守られる慈しみ、母が子の痛みを自分の痛みとするような憐れみ、力の犠牲になっているものに対する正義。人知れずどこからでも裁きを起こすことができる実行力。これらに頼って行くとき、鷲のような、もはや敵なしの力が授けられて、常に勝利の只中を進む民として生かされていくわけです。

 9節をご覧いただくと、彼が失敗を犯したことも念頭に置かれているのが分かります。バト・シェバとの姦淫。性においての失態を主は何よりもお嫌いになられます。それをダビデはよくわかっていたはずです。その主が最もお嫌いになられることにおいて彼は罪を犯しました。しかし、それでも赦されました。詩篇103:9。

 永久に責められることなく/とこしえに怒り続けられることはない。

 神の慈しみと憐れみ。その主のご性質がつねに人間の罪を飛び越えて勝ってしまうのです。その驚くべき事実の前に、彼は屈服し、平安を見出している。この神の慈しみと憐れみこそ有限である人間が無限の神のもとに行かせていただく基盤。本日朗読された、そのあとの14節以降は、人間が塵にすぎないこと、野の草や花のように一瞬の命に過ぎないこと。その生命の息は神によって鼻から吹き入れられましたが、しかし、それも息に過ぎないことを覚えています。息が止まってしまえば、命が奪われる。人間の実体の実体はこの息ですよね。創世記2:7に記されています。

 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。

 どうしてあの人は亡くなり、わたしはいま生きているのか。それは命の息があるからということだけです。息は主の御業によって吹き入れられ、取り去られます。人間の自由によって、自分の意思に従っているようにみえて、その齢をコントロールできる人はいません。健康だった人が今日息を引き取り、死にそうだった人が生き返ります。無限の世界を憧れ、自由を憧れ、力に憧憬をいだきますが、しかし、息は、命は私達のコントール外、さらに肉体も塵に帰る運命です。

 しかし、どうでしょう。賛美の世界に入ってきて、神のご性質を心に一心に抱き。今日は特に慈しみと憐れみ、ヘセドとラハミームを心に深く刻んでいただいて。与えられている息の一瞬に、主の永遠の世界を黙想し、賛美の中に入っていきます。すると、この御方の思いの中で、この御方の慈しみと憐れみを冠として抱かせていただくものとして、歩ませていただく道に気づきます。この王の栄冠をここに掲げて、永遠に生きるものとして、この有限なる肉体に永遠の属性をもった主への思いを宿すものとして召されていることを感じます。異邦人である我々が救われるのは、すべてキリストのご功績です。

 11節。

 天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。

 人間は小さい存在です。しかし、その小さな存在が、圧倒的に偉大な大きな、主の守りのもとにいる。人間のこの小ささと神の偉大さ、この極大から極小の違いを意識し、その御方に抱かれていることを思ってください。

 罪は神から離れてきてしまったかつての歩みは、東から西が遠いように、有限から無限というように、神が絶対的に遠ざけてくださいます。望むならば。

 キリストの十字架の清めによって、このダビデ的な信仰の遺産のすべてに預かることができます。鷲のように登る力を、主への賛美から、黙想から得てください。アーメン。