マタイによる福音書6:6〜8 「隠れたところ」

石井和典牧師

 イエス様の時代のエルサレムの神殿はとても立派なものでした。ヘロデ大王によって紀元前20年頃から大規模拡張工事が行われていきました。ヘロデはこの工事によって自分の名が永遠に刻まれて行くようにと願っていました。しかし、重要なのは神の御名が崇められることであって、ヘロデが崇められることではありません。ヘロデは建築王と言われているぐらい建築事業を得意とした王でした。自分の能力を示すためにこの神殿改修を行ったようです。ヘレニズム文化に傾倒し、ヘブライズムすなわち一神教的ではなくて、ヘレニズム的マインドを持っていました。すなわちローマ皇帝のように多神教的な考え方ですね。だからこそ、ローマの傀儡として彼が立つことができたのでしょうし、逆に言えば、ユダヤの民からの信頼を得ることができなかったと言えます。

 故に、建築物で民の歓心を買おうとしたわけです。

 イエス様はこの神殿の壮麗な姿や、ユダヤの民の敬虔さを人に見せる行動に対して、非常に厳しく批判的な態度をお取りになられました。

 イエス様が何を大切にされていたのかが、イエス様がお嫌いになられたことを見れば分かります。イエス様は「何を見ているか」を大切にされているのです。目です。肉眼の目というよりも「注意の焦点」です。ベクトルです。方向です。体の各器官は信仰とは何たるかを指し示しています。神の似姿に造られている私達は、自分の体がどのように造られているのかということを思うことをもって信仰のしめしをいただくことができます。

 目が大事なのです。だから、本日の箇所ともつながるところですが、マタイ6:22〜23でこのようにおっしゃられているのです。

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

 また、イエス様はこのように注意なさいました。マタイ6:1。本日の箇所というのは、3つの敬虔なる行為と言われていた「施し、祈り、断食」に関する注意の箇所です。そのはじめにこのように記されています。

 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

 見てもらうのは、神様に対してです。神の心にかなうことを神の方を向いて行えばよいのです。しかし、多くの場合、人の方を向いて、人に気に入ってもらえるように、そして、それは他者からの自分への評価がよりよいものになったり、自分の価値が相対的に高くされていくようにと願ってのことである場合が多いものです。しかし、最も大切なのは、世とか人とかの評価ではなくて、神様からの評価です。だから、別に敬虔そうな行為を装って人からの評価など受けても意味がないわけです。人はすごいねと言ってくれるかもしれませんが、命はそこにあるわけではありません。命は神との関係の中にあります。

 神を見ているのか、人を見ているのか、自分自身を見ているのか。「どこに焦点があたっているのか」です。

 ユダヤの民の伝統の中に、日に三度祈る「一八の祈り」というものがありまして、そこに「族長の祈り」という祈りがありますが、非常に長々と神様に呼びかけて祈るという祈りです。これはどのように主を讃美するのかということを教えてくれる祈りでもあります。素晴らしいものですが、長くなりますと、それが宗教的饒舌となり、人に見せる祈りとなり、その心が空転しはじめるといことが起こってきます。

 その祈りへのアンチテーゼとして主は「天におられるわたしたちの父よ」という「一言の呼びかけ」を教えてくださいました。公徳心や宗教心の披瀝ということが全面に決して出ることがないように、簡素に簡素にということです。特に公の祈りのときには、主が主の祈りで教えてくださっていることを思う必要があります。

 というのも、本当に我々は人に見られるために、宗教的な善行を積んで、その善行は実際には人に見られるためにしているので、無意味なことなのですが、無意味なことを積み上げて悦に入る罪人であるからです。イエス様がおっしゃられるように、施しをするときにも。「ラッパを吹き鳴らして」しまうものですし、言葉数が多く、その言葉が美麗であり、また人を感動させるものであれば通じるのではないかと思い。断食していることをアピールするために、苦しみの中にある自分を人に見てもらおうとします。それらは実際に神の前では価値が無いものです。なぜなら、神が求めておられるのは、私達自身だからです。

 何が意味があるのか、それは「ただひたすらに、主の前にでる」ということです。主との交わりという命に中に入ることです。主を見上げて、主と対話することです。だから、主はマタイ6:8でこのようにおっしゃられるわけです。

 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。

 そして、6:14。

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

 主を前にして、主の心にその心の目をあわせて、焦点をあわせて、その御方との対話に入れば、主が私たちのすべてを知っていてくださるかたであることがわかりますし、さらに、その御方の前に、その御方を見ないで歩んできた罪の、方向を外した、ベクトルを外した、的外れの自分というものを意識せざるを得ないことに気づいて、自分が赦されなければならないことが、第一になるわけですね。すると人を赦さないままでいるということが、不自然すぎてできなくなるのです。自分が恐ろしく大きな罪を負っていながら、人のことを責め続けるなど決してできないからです。主の前に行っているかどうか、それは人を赦す人かどうかということを見れば、ひと目でわかってしまうということです。

 自分の善行、人の善行、自分が自分をどう評価するか、他人がわたしをどう評価するか。

 そうではなくて、主の祈りが教えるのは「天の父なる神様」と言って、その御前でただひたすらに主との交わりを喜び、楽しみ、しかし、自分自身の不遜さ、かたくなさを自覚しているような、それゆえ神の愛の偉大さの前に屈服し、その愛を楽しんでいるような、そのような主との関係の中を生きよと教えてくださっているわけです。

 地上に富を積みますと、富を積むということは、そこに心を置くということですが、それらはいずれは吹き飛びます。地上のものは過ぎ去るからです。人の目を中心にして、人の目に気に入られることをしたって、その人は罪人ですから簡単に人を裏切ります。そもそも、人間の勝手な期待や要求を、勝手に人に押し付けたりすべきではありません。ひたすらに天に心をおくのです。ならば、そこから神様が無尽蔵の蔵から富を与えてくださるからです。

 教会に20歳のときに来て、その時から「神との関係が大事だぞ、関係が大事だぞ」と教えられ続けて来たと思います。罪とは神との関係が壊れていることだぞとも何千回聞いたことでありましょう。そして私もそのようにお話してきました。今更ながらに気付かされるわけですが、主イエスは、教会が語り続けているように、「神様との交わりに入るということはどういうことか」をお語りくださっていることに気づきます。

 当時のユダヤ教ファリサイ派などが、一見信仰的な筋道をたどっているように見えても、それが実はずれている。的を外しているということをイエス様は明確に指摘しておられるのです。

 外面上信仰者を装っている、いやむしろ敬虔さを持っている。しかし、その心はずれている。その信仰者然とした姿、しかし、決定的に神を前にしていないものの姿。フェイクユダヤ人、フェイククリスチャン。。。それを主はするどく指摘しておられます。その違いをこそお話してくださり、真に神の前に来ることができるように招いておられるのです。

 外面上は信仰者に見えても中身が全く違う、それも、少しずれているようにしか見えないことがやがて全然違う方向を向いているという結末を生み出します。

 主は教えてくださっています。「ただ主の心に集中せよ」と「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」と、だから、祈るときには「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と。

 密室の祈り、そのところに豊かな交わりがあります。そこで何をするか、そこを主は見ておられますし、皆さん一人一人の宗教改革はその密室の祈りから起こるはずです。アーメン。