マタイによる福音書7:7〜12 「求めよ」

石井和典牧師

 求めなさい。そうすれば、与えられる。

 イエス様がこのように断言なされました。一切例外を語る余地を残さなかったということがまず大事です。求めれば与えられる根拠が語られていきます。マタイ7:9〜11。

 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

 「求めれば、与えられる」それは確実。なぜなら、神は父であるからです。主は主の祈りの中の第一声でこのように教えてくださいました。マタイ6:9。

 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。

 神を父と呼べと教えてくださったことは、決定的に重要なことであることを私達は肝に銘じる必要があります。ここから逸れなければ良いわけです。すべての源、創り主、そのお方が私達の父としておられる。私達の肉の父は不完全ながら父たるものはこのように生きるということを指し示してくれています。その父の完全であられるお方が神。だから、自分の子供が欲しがるパンをくれないはずはないと主は教えてくださるわけですね。この信頼感の中に生きることができるということが信仰者の姿です。

 しかし、この関係が壊れている、というのが現実の姿。神の心を第一にすることなく、私達は自分が考えることを第一にして、偶像をつくり完全に関係を壊してしまった。神の怒りが私達と神との間にあります。だから、祈りが聞かれなくなってしまったのです。イザヤ書1:15以下になぜ祈りが聞かれないのかが記されています。

 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。・・・たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。

 「血にまみれた手」「悪の行い」が前にあるので、神は祈りを聞かれないとおっしゃられています。隣人との間に問題を起こし、結局は「血にまみれた手」と主に評されるようになっていまします。それはどうしてなのかといえば、偶像崇拝に至ってしまったからです。全能の神を信じるならば、神が命じられた律法を大事にします。律法の中心は十戒です。十戒は、要約するならば、神を愛し、隣人を愛するということです。神を愛するがゆえに、隣人を愛するというところに行為が波及していくわけです。イエス様が十戒を要約してこのようにおっしゃられました。マタイ22:37以下。

 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

 神を愛するとどうなるかというと、「感謝」として跳ね返ってきます。感謝するしかなくなります。神を大切にしているとどれだけ自分が大切にされてきたかに気づきます、それゆえ神の御業を讃美し、神が注がれた愛に気づいて感謝しつづけるようになるのですね。すると、隣人に対する思いは、神が私を愛してくださったように、私も人を愛するという思いになります。良い思いが跳ね返って跳ね返って、隣人に波及していくのを実感しますね。それが十戒なわけです。

 神への関係がしっかりすると、それが隣人との関係に影響を及ぼしていきますし、神が禁じられたことは絶対にできなくなります。殺人、姦淫、盗み、偽証などです。神への感謝を思っていたらできません。でも人間は殺人、姦淫、盗み、偽証に至ります。

 それはなぜかといえば、偶像を崇拝するからです。神以外のなにかに心が奪われるからです。神を礼拝していれば起こりえませんが、偶像を礼拝していると、殺人、姦淫、盗み、偽証が起こります。ということは、実際に偶像のような神を形作ったものを拝するというところに至らなくても、偶像礼拝は起こっている。神を忘れるということが起こっているということです。

 「血にまみれた手」「悪の行い」が前にあるので、祈りを聞かれない。人が神ではなくて、別の方を向いているので、本来の祈りの対象である神は、御自分にその祈りが向かっていないので、聞かない。ということなのです。

 しかし、主は預言者イザヤを通してこのように宣言なさいました。

 たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。

 手についた血が清められて、悪の行いが清められて、主の方を向くようになって、全能の神を思うことができるようになったとき、まっすぐと主に心を向ける時に、主は父として必ず祈りを聞かれるわけです。その清めが主イエスの血によってなされました。犠牲の子羊である主イエスが屠られて、そのなだめの供え物のちからによって、真っ白くさせられました。

 だから、真っ白くされたことが前提で、真っ白くするお方が、「求めれば、与えられる」すなわち「祈れば、応えられる」と断言されるのです。さらに、ヨハネ福音書15:7を見ていただければ祈りの秘訣が分かります。

 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 これは最後の晩餐の席で主イエスが弟子たちに与えた約束の言葉です。主イエスとの関係が回復して、神の御言葉である聖書の言葉が、言葉どおり「いつも」あるならば。気まぐれで一週間のうちに少しだけとかじゃありません、いつも常にです。「いつも」あるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられると主はここでも祈りが必ず応えられると断言されています。なぜ聞かれないのか、それは主イエスとつながっていないから、またいつも御言葉が心のうちにあるわけじゃないからということになります。

 しかし、主イエスがおっしゃるとおり、キリストにつながり、御言葉が常に内側にあるならば、どうなるかといえば。マルコ11:24の御言葉が成就するということです。

 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

 イエス様は5章からはじまる山上の説教の中で、人々の義しさが、当時の人々の中でもっとも義しいと言われていた律法学者やファリサイ派の人々の義しさを上回っていなければ決して天の国に入ることはできないとおっしゃられました。この言葉だけみますと、そのような義は実現できないように思えてしまいます。律法学者やファリサイ派の人々がどれだけ神経質に聖書の言葉を守っていたかわかりません。しかし、彼らの義しさを上回る義というのを主は教えてくださっています。それが本日の「求めなさい」の箇所です。

 関係が回復し、父と子との間柄に戻すのだから、十字架によって、求めるものは何でも得たと信じなさい。実際に祈り、応えられて、満たされていくことで、自分が主にしていただいたことをそのまま人にもしなさい。このあなたの父を信頼する祈り、父の応答、あなた方の隣人への憐れみ。この流れをもってして律法学者やファリサイ派を上回るのだと、主は教えてくださいました。

 律法を実行して義しさを得るのはユダヤ教の枠組みでばかり考えてきた世界に、この「自分にしてもらいたいことを隣人にする」という言葉は、ユダヤ教という社会だけじゃなくて、全世界のすべての民に実行可能な広がりを得たわけです。

 十字架によって神の怒りを逃れ、祈りを聞いていただけるようになり、聞いていただいて満たされた余裕、満足感、平安をもって隣人にのぞみ、自分がしてもらいたいことを隣人にして、自分がしてほしくないことを決して隣人にしないで、律法の実践を志していた律法学者ファリサイ派の義を上回っていくということが主の御心です。

 これを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれます。アーメン。