ルカによる福音書 15:20 「遠くから見つける」

石井和典牧師

 二人の息子がいました。下の息子は父の財産を持って家を出ました。父が生きているうちから、父が死んだ時に受け取る遺産を得たいと考える息子です。父の心など知らないという態度です。彼が求めているのは自分の思いが達成されることだけです。家を出て、思い通りに生きたいということです。

 息子が出ていったことを誰よりも悲しみ、その出ていった日から息子のことを思い続けているのが父です。イエス様のたとえで出てくる父は、天の父なる神さまのことですが、人間は常にこの下の弟のような態度をとっているわけです。

 「父の心は知らない、自分が得ることができるものだけがほしい。」と。

 肉と霊はいつも対立してしまうものと聖書は語っています。この息子がほしいと願ったものが肉の目に見えるものです。しかし、その背後にある父の心こそが大事なわけですが、その心が「霊」と表現して良いと思います。物質を通して祝福を受けることも多いわけですが、肉を通してその後ろにある父の心、すなわち「霊」を受けとらなければ、霊的な生き方はできません。

 この父の心を知るという「霊的な」生き方が、信仰生活なのです。いつのまにか、この世の物質にだけとらわれるような、父の思いなど知らないというような歩みに落ちてしまうのが人間です。それが肉体を持つ人間の罪が刻まれた弱さですね。

 父は、息子がいくら自分を捨て、忘れた歩みをしていようが常に覚え続けています。その父の心こそが、息子と父への再開への道を開いていきます。このベースがあることが大事です。ここに力があります。

 父の心がベースにあって、そのベースがあるからいつでも立ち返る道が準備されています。その父の思いに至ることこそが、彼の救いの道でありました。

 「放蕩息子の帰還」という題名がつけられていますと、放蕩息子はどこかの不良息子のように捉えられてしまうこともありますが、この例えを読んでいる一人ひとりが放蕩息子であったということを認めるためのたとえです。いや、わたしは放蕩などしていない。真面目に歩んでいるとおっしゃられる方もおられるかもしれませんが、その真面目な歩みの中に、常に霊が、常に父の心が意識されていたかどうか、振り返ってみてください。

 

 そうです、すべての人が罪人。すべての人が、神の前に、神の心よりも別のなにかを優先させた放蕩息子です。

 

 父のこころを読んで、父のこころに沿った財産の使い方でなければ、どんな使い方をしようが、それは「無駄使い」です。父のこころを知らなければ、無駄に使い果たしている可能性は極めて高いです。しかし、転機がやってきます。飢饉がやってきます。試練がやってきます。そのときになって初めて気づくのです。

 父のところにおるということこそが、命であったことを。父のこころに守られているということが命であったこと。家のものすべてが父のこころのもと、父の思いによって守られて、だれもひもじい思いをしているものはいなかったことを。父のもとをはなれて、試練に見舞われて、枯渇するとは一体どういうことか、味わってはじめて父の恵みの偉大さに気付かされていく。

 そのようなことを考えますと、私達罪人は、一度渇くということがどうしても必要なようです。渇かない限り、本当に重要な唯一のことに気づかない。自分の歩みが間違っていたことを自分で認めることさえできない。イスラエルが出エジプト後、荒れ野を旅しなければならなかったこと。王国は滅びの危機を逃れることができず、滅び流浪の民となったこと、しかし、そこから信仰の再建がなされていくこと。一度渇いて立ち返る。このプロセスを通って行くのが人間なようです。

 父のもとを離れ、試練にあってそこで立ち返って戻ってくるということがすべての人にとって必要なプロセス。試練で枯渇する。そこで終わりではなくてそこからの回復ということが神様によって計画されていることを肝に銘じる必要があります。

 父は、立ち返りの瞬間を目指して下の息子のことを常に覚え続けてくださっています。

 17節を見ると分かりますが、我に返れば、冷静になってものが見えるようになれば、どれだけの恩恵を受けていたのかということを悟ります。

 しかし、その我に返る瞬間に至るまでが試練の道であり、試練を通らないと我に返りません。驚くほどに気前よく、父は家族に振る舞っていたことに改めて気づくのです。改めて気づくといことが大事です。薄々というか、記憶をたどれば気づくことができたはず、心のどこかでは気づいていたのです。しかし、それを無視して自分の思いを優先した。

 その結果見るべきものが全く見えなくなって迷走していた。

 しかし、迷走していたということを認めるところから、突然真実が見えるようになっていきます。自分がしたことの不遜さ、父の心を無視していたことの恐ろしさに気づいて、もう子供として扱われることはできない、雇い人の一人として扱ってくださいと言うぐらい謙遜にならざるを得なくなるのです。

 傲慢な信仰者というのは形容矛盾です。信仰者は傲慢になることはできません。唯一の父なる神の憐れみにふれるのならば、父の心を知るのならば。しかし、知らないのならば傲慢に振る舞うし、悟っていないならば、何ももらっていないかのような顔をして尊大に振る舞います。この下の息子と同じように。受けているのに受けていないような顔をして、父の心を踏みにじって出ていくのです。その場合は、財産を浪費するしかないのです。傲慢な信仰者とは形容矛盾、ありえない。成り立ち得ないものです。

 自分がしたことの愚かさの故に、もう何も言うことができずに、ただ憐れみにすがってその家の中に雇い人として戻してくれさえすれば満足であるとの思いに至ります。そのようなボロボロになって、自らの不遜さを悟った息子を、父は恐ろしいほどに寛大に扱います。

 恐ろしいほどに寛大な父というのは、もちろん私達一人ひとりに対する神様の態度であります。私達が犯してきた罪に対する主イエスの態度や、洗礼を受けて後、その祝福を目いっぱいに受けて、御言葉によって生きていくということは、この恐ろしいほどに寛大な主がおられなければありえないことでした。

 父は子供が一日も早く立ち返ってくるようにと待って待ち続けておりました。息子が帰ってくるやいなや、遠くから息子を見つけます。遠くにいるうちに見つけるという表現と心を覚えてください。父は待ち続けていました。

 待って、待って、息子の幸いを願い続け、待った。

 だから、遠くにいる息子をすぐさま見つけることができ、遠くにいるうちに父の方から走り寄ったのです。

 憐れに思うというのは、自分の内臓を痛めるような、子供を生む母のような、自分の体の一部として痛みを覚えるということです。

 走り寄って、自分の痛みを抱きしめるようにして、子供を抱きしめるのです。

 息子は罪の告白をします。ルカ15章21節。

 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

 息子は心のそこから、自分の思いを打ち明けます。父はすかさず応えて、すべてを回復する行動をとります。

 良い服を着せて、指輪をはめてやります。指輪は父の権威と力、良い服はどうみてもこの一家のあるじである父の息子である事がわかる姿にしてくださるのです。そして、履物を履かせて、奴隷ではなくて(履物を履かないというのは奴隷のイメージのようです)。履物をしっかり履かせて、息子としてしか扱わないという態度を父はとりました。

 そして、大宴会です。肉を食べるというのは非常に貴重な機会でした。宴会モード全開という感じですね。というのも、父にとってこの下の息子が帰ってくるということは。ルカ15章24節。

 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。

 父の心を知らず理解せず、不遜にふるまっていた時、この息子は「死んでいた」のです。神の心を理解できず、その心を頂いたものから読み取れないうちは「死んでいる」のです。肉ばかりしかみていなくて、その背後にある父の思いである霊がわからないうちは死んでいるのです。しかし、そこにある父の思いに気づけば生き返る。下の息子は、飢饉の中で、試練の中で生き返りました。そして、父によって見つけ出されます。父が走りより、父が包んでくださるということを経験します。

 父の積年の思いを理解していた家来たちは一緒に泣いたことでしょう。父が至るところに息子を見出して探していたことを知っていたからです。遠くに人が見えればいつも息子が帰ってきたのではないかと思い走ったことでしょう。いついかなる時も、息子を得るために、息子への思いをつのらせて、その先に息子を常に見ていたのです。

 その姿や心に寄り添うものたちにとっては、復活の宴、涙の宴、喜びの宴です。しかし、兄はそう思いません。父の心に寄り添う、すなわち物事の背後にある見えない霊、心を見るのではなくて、自分が見たいものを見ていたからです。それは、財産を自分の好き勝手に使い果たして、父をまるで死んだかのようあつかい遺産を前借りした絶対に許せない弟しか見ていないからです。父のこころではなくて、自分の心に拘泥していました。

 もしも、父のこころに気づくなら、驚くべき恵みの世界、憐れみの世界、喜びの世界しかそこにはありません。絶望する苦難があっても、その中に父のもとへの帰還への道を見出すことができます。父が絶望の中に、一筋のラインを、立ち返ることができるように、皆様に思いをつのらせて、遠くから見定めておられます。

 父の目をどうぞみてください。立ち返ってください。そして、ものが見えるようになってください。アーメン。