ネヘミヤ記9:9〜15 「雲の柱、火の柱」

石井和典牧師

 本日の箇所はネヘミヤ記です。ネヘミヤというのはペルシアの王の献酌官、すなわち王の側近です。異教の国ペルシアにありながら、ネヘミヤは信仰の民でありました。その後に、ユダヤ地方の総督となっていく人です。

 この時代はイスラエルという国が滅亡して、バビロンに捕囚され、バビロンからペルシアがイスラエルを解放し、イスラエル再建に向かう歩みの中にありました。

 

 神様は再建への道を常に残してくださるお方であることがわかります。

 ありえないような立場に、イスラエルの民が立っている。ネヘミヤが存在している。異教の地で、イスラエルの民が献酌官です。これこそが神様がご準備くださっていたことです。どうにもならないような現実をもう一度つくりなおしてくださるのが神様です。

 一度滅ぼされてしまった国がどうやって自力で回復できますでしょうか。ほぼ不可能な業を主なる神はご準備くださって、ご自分の約束の言葉を守られるのです。

 現実がどういうものかということも決して無視されるわけではありませんし、歴史というのはすべて神の支配の内側にあります。ですから現実は大事です。

 しかし、神の言葉はその現実の中にあり、現実を乗り越え、主の慈しみが示されるということを私達は目の当たりにします。イスラエルが復活していくということはそういうことです。決して変えられないように見える現実、歴史を主は変えてくださいます。神はご自身が発せられた言葉を決してひとつも忘れられることはありません。イスラエルの民は宝の民です。祝福の源となる民です。アブラハムをその祖とし、父とする民です。アブラハムに神は約束の言葉を与えられました。創世記12:2。

 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。

 祝福の源となされるとおっしゃいました。そして創世記15:5。

 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はそのようになる。」

 満天の星空を見せられて、その星のように子孫が増え広がると。この言葉は守られて、今この聖書を読み信仰の道を守ろうとしている民が世界中に溢れています。人は歴史を見て失望しても、主は歴史を見られてご自分の力の実現をご覧になられます。実際に約束は守られています。

 しかし、イスラエルという信仰共同体が崩壊し、国が滅び、他国に奴隷として連れされられてしまったその時、すべてがついえた。終わったと民は思ったはずです。

 終わりません。神の言葉は守られます。一度壊れたかに見えたものを主は回復なさいます。それも人間には決してできないというような方法によって。主がご自分の慈しみを守られるということ。どんな現実であろうとも神が回復させてくださるのならば、回復するという歩みになります。

 本日読んでいますネヘミヤ記9章は、エルサレムの城壁が再建されて、都が再建されていく。そこで内容が整えられていったという話しです。内容というのは信仰です。人間にとっていつも最も重要なのは、その内容であり、その心であり、霊です。

 城壁が再建されるとともに、内容がついに復活する。そんな時の祈りの言葉ですね。

 

 教会に来ると、「霊的」という専門用語にぶつかってつまずきそうになります。「霊」とはなんぞやと。しかし、本日の9章を読んでいただければおわかりいただけると思います。「霊的」とはなにか「霊」とはなにか。イスラエルは国が破壊されて、神殿が破壊されて、城壁が破壊されてボロボロだったのです。

 それらが再建されていき、外形が整っていきました。すべて神の恵みです。

 そこで、もっとも重要な「霊」が回復されていくことが必要でした。外が整ったので、中身が必要です。中身はなにか。それはこの9章の祈りです。神様のご行為。神様の御業に目が覚めていく。これこそ、「霊的」なあり方であり。霊であり。信仰の歩みであります。

 9章のはじめを見ていただきますと、このように記されています。神の前に信仰に生き始めますと、人々の心が変化していき、心が変化していきますと、もちろん行動も変化します。そして、必ずと言っていいほどに「断食的」な生き方へと導かれます。

 断食的というのは、寝食をさしおいて神に、神の言葉にとなるわけです。何を最も優先するのかという優先順位の問題ですから、究極に言えば信仰とは。食べることも大事ですし、眠ることも極めて重要です、そのほか人間に与えられている一つ一つのことは大事だから与えられています。しかし、それを第一にするのか、神を第一にするのか、そこが信仰か、非信仰かを分けるのです。ネヘミヤ9章1節以下。

 その月の二十四日に、イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけた。イスラエルの血筋の者は異民族との関係を一切断ち、進み出て、自分たちの罪科と先祖の罪悪を告白した。彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。

 仮庵の祭りという祭りの前に彼らは断食をしなければならないという規定がありましたが、彼らが断食をしていたのは、断食をしなさいと定められている時ではありません。ということは自主的にそのようにすることがベストであると思ったということです。特に断食を命じられていない時でも、断食すべき自分のあり方を見出し、6時間、聖書を読んで過ごし、6時間祈りに時間を費やしました。

 彼らは、帰還、神殿再建、城壁再建など驚くべき神の恵みを経験して、解放を経験します。しかしなお、そこから彼ら自身が自分の心で、意思でその内容を回復していくというプロセスが必要でした。内容回復のプロセスというのは、非常に簡単なことです。

 主を第一とするということです。

 そのことを自分たちで行動にあらわしていったのです。何をすればよいのかわかります。当たり前のことですが、これまでしてくださった恩について一つ一つ思いおこすわけです。そして自分たちがどれだけ、その父の心を踏みにじってきてしまったのかについて素直に告白していきます。

 本日説教のタイトルにもなっている「雲の柱、火の柱」というのは、奴隷解放から荒れ野をさまよい、寄る辺なき仮の住まいを転々としなければならなかったときに、主が民の先頭にたって常に導いてくださっていたことをしめします。

 荒れ野という先の見えない、命が尽き果てるカラカラの場所を実は常に主が導いてくださり、安定なきところに安定を与え続けてくださっていたということを彼らはあらためて思い出していっているのです。

 自分たちが経験してきた歴史のその只中に一歩一歩に主がともなってくださっていたことを見出したのです。

 主イエスがインマヌエルなるお方、「神は我々と共におられる」お方であると呼ばれ、その主を私達は信じています。ならば、私達は立ち返り、「立ち返る」とはどういうことなのか、このネヘミヤ記が今日教えてくれています。

 すべての優先順位を主に置くという「断食的」な歩みに立ち返り、歩みの只中に働かれた主の御業を思い起こすのです。片時もはなれずに、主が皆様の父としておられたこと、主イエスが教えてくださったように、神を父と呼べということが本当は常に実現していたことを、信仰の目を見開いて見直すのです。

 昼は雲の柱、夜は火の柱と言うように、たしかに寄る辺なき我々を活かし続けてきた主が常におられたから、今生きているのではないのか。やっと今このポイントに帰ってきたのですから、ここから新しい歩みを父とともにはじめてください。感謝でその人生を満たしてください。アーメン。