出エジプト記 13:21〜22 「主の先導」

石井和典牧師

 心をまっさらにして、神の御声を聞こうとする民には、神の救いのご計画が伝えられます。

 モーセは確かに神様の思いを聞きました。

 今から3000年以上も前、確かに主は叫ぶものたちの声を聞いてくださいました。圧政の苦しみの中、不条理の中、叫ぶものの声を主は聞いていてくださり、ご自分の言葉に基づいて救いを与えてくださいます。出エジプト記の6:5にこのように記されています。

 わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。

 どのようなご契約を思い起こされたのでしょうか。それはアブラハム、イサク、ヤコブにあらわしてくださった契約です。

 この数ヶ月アブラハム契約のことを何度も触れていますが、今日はアブラハムとイサクとの間に語られた神の約束の言葉に触れておきたいと思います。創世記22:16以下です。

 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 神はアブラハムにイスラエルの民を祝福して、「祝福の源」になるようにしてくださいました。祝福というのは神の力がその人にあるということです。神がその人にご自身の御手の業を行ってくださり、神に人がお仕えする以上に神がその人にお仕えくださっていることがわかるということです。

 ですからまことに祝福された姿というのは、本日の聖書の中に記されていますように、イスラエルの民が奴隷状態から神の業によって解放させられていくということです。

 神の業が確かにここにあります。真に祝福を受け取った民の姿がここにあります。モーセを通して彼らは祝福を受け取りました。

 祝福を受け取ったモーセという人はどのような人であったでしょうか。それは民数記を見れば分かります。民数記12:7。

 わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。

 僕という言葉が重要です。モーセは主の僕です。僕は聖書の中では、最高の称号です。神様が僕と呼びかけてくださったら、それは主が最高の評価をその人に与えているということです。モーセは神様から最高の評価を受けている。この僕という言葉はヘブライ語でアバドという言葉で、使用人、召使い、または奴隷と翻訳されます。主人に対して仕える僕です。僕の性質で重要なのは、謙遜であるということです。民数記12:3。

 モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。

 と記されています。僕はなによりも主人の仰せに忠実でなければなりません。

 ここからわかるのは神様が大切にされるのは、人間に能力や力があるかどうかということではありません。それらは主がお与えくださいます。イスラエルの民は選ばれた民でありましたが、彼らが強かったから選ばれたのではなく、むしろ弱いものを選ばれたわけです。申命記7:7に記されています。

 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。

 だから、大事なのは、主の御前において、僕としておるかどうかということです。何ができるかできないか、知識が深いか深くないか、力があるかどうかということが問題なのではなくて、僕であるかどうかが問題なのです。

 力なく、僕であるとどうなるか。不思議なことに力が与えられていきます。モーセの姿を見てください。自分自身の力では民を解放させることはできません。まったくファラオに太刀打ちできる力を有してはいません。しかし、解放者となりました。ファラオに太刀打ちできる力は主がお与えになられました。主にしかできない奇跡をもって、モーセを通して神は民を導かれました。

 何もできなくて全く構わない、主にひたすらに耳が開かれている僕がそこにおればいいということがよく分かります。それが民が祝福を受けるということです。

 本日の聖書箇所を見てください。神が導かれた場所というのは、「退路を絶たれる道」です。エジプトを出て、ラメセスという場所を出て、スコトで宿営してバアル・ツェフォンの前に宿営しなければなりませんでした。新共同訳聖書の後ろにある2番の地図「出エジプトの道」をご覧いただければ分かりますが、逃亡の道のりとしてはもっと良い道が他にありそうな気がします。奴隷状態からの解放なのですから、船などないはずです、ですから、海を背中にした布陣など取るべきではないと思ってしまいます。

 しかし、主は「海を背中にして宿営するように」とお命じになられました。主に信頼していなければ全く理解不能な「退路を絶たれる道」です。

 しかし、主はこのような不思議なご命令をお与えになられることによって、ご自身のお力を明確に示されました。決して人間には行うことができない「海を割る」という方法をもって。主はご自身が神であられることをお示しになられます。このように記されています。出エジプト記14:18。

 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。

 主がおっしゃられた通りに、モーセは勝利を体験し、歌を歌うことさえできるようになりました。モーセは歌いました。出エジプト記15:1

 主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。/主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。/この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。

 このように歌うことができる勝利を与えるのが主の目的です。しかし、勝利の前に見えてくる状況というのはどういうものだったのかというと。民はモーセに不平不満を言いました。出エジプト記14:11。

 また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですから。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」

 どうして民がこのように言ったのかといえば、強力なエジプト軍に全く勝ち目はないと目に見える状況を見て悟ったからです。出エジプト記14:7。 

 えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。

 エジプトの軍事力を総動員するかのようにして、イスラエルの民を追ったからです。

 勝ち目がないようにしか見えない戦いです。その戦いの中に、導くもの。それが雲の柱、火の柱。神の導き。主の先導。出エジプト記13:21。

 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。

 しかし、勝ち目のない戦いに勝利して、神の栄光を現されるのが、私たちの主。一見負けにしか見えない戦いを戦い抜き勝利します。

 主イエスのメシアとしてのお姿もそのようでした。主は王の王であられますが、人の姿をとって現れ、決して勝利を思うことができないような十字架の、処刑の、血だらけのお姿をもって、死をもって死に打ち勝たれました。そのキリストを信じるものが同じように勝ち目のないように見える戦いに、必ず勝利をおさめるという不思議な主の栄光を現して、進み続ける。それが信じるものの歩みです。アーメン。

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