出エジプト記 16:2-5 「パンが降る」

石井和典牧師

 イスラエルを導く主なる神は、驚くべき御業をお見せくださいますが、民は不平不満を言います。目の前の目に見える状況が変化して、圧迫されると、信仰の言葉ではなく、文句を言うようになります。

 主は、エジプトの奴隷状態から解放してくださいました。エジプトの軍隊に追い詰められるも、海が割られて奇跡的に軍隊が飲み込まれ、軍事力の全くないイスラエルの民が勝利しました。

 何もない、ただ主だけ。これが彼らの勝利の秘訣。しかし、この秘訣に不平不満を言うのが民。このリアリスティックな姿、これは今も昔も変わらない信仰者の姿です。

 何もないことが良いこと。神に頼るしかないことが力。これが信仰の道です。

 モーセの口からは不満が漏れることはありません。なぜなら、神を見ているからです。しかし、民は神を見ず、状況に左右されるので、不安に飲み込まれてしまうわけです。

 モーセの口には讃美の言葉がありました。モーセの讃美の声から私達はモーセが何に心を割いていたのかわかります。神の業です。出エジプト記15:2。

 主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。

 15:10。

 あなたが息を吹きかけると/海は彼らを覆い/彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。

 神の力というのはどのような力ですか。それは大自然が従う力です。一息吹きかけると、海をも山をも動く力です。頼るのは環境の力ではありません。神の力です。

 目の前の状況は目まぐるしく変化していきます。状況は、「荒れ野」と表現せざるを得ない生きるに厳しいものです。民はこの荒れ野にあえて導かれるわけです。

 ヘブライ語でミッドバール(荒れ野)はダーバール(言葉、事柄)をもとにできています。荒れ野というは言葉を聞く場所、言葉を受ける場所。神の啓示を受けるところです。荒れ野の中で、神の言葉というオアシスを発見するのです。苦しい現実が常に襲ってきます。しかし、そここそが神の言葉を聞く場所です。

 神の言葉を選ぶのか、それとも肉の認識にとどまるのか、どちらを選ぶのか主が見ておられるわけです。本日の聖書の箇所にもこのように記されているのを見ることができます。16:4。

 彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。

 聖書を通してこのような認識を得ることができたということは絶大に大きなことです。苦難や試練が襲ってくると、誰か悪者をつくってその人のせいにしたり、自分自身のせいにしたり、状況のせいにしたりということを今までしてきたのです。

 しかし、問われているのは、この荒れ野の中で主の言葉を選び取るかどうか。これが人生の課題であったのだと気づきます。

 神の御言葉によって、荒れ野は単なる苦しみの現場ではなくて、神の言葉を聞く場所、導きの道のりとなるわけです。神の言葉を聞いて、その言葉に従うのならば、どうなるのかと言いますと、それも本日の聖書箇所のすこしまえに書かれています。出エジプト記15:26。

 「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」

 主の言葉を聞いて、その言葉に従うならば、「主のいやし」を体験するのです。主の力が注がれる、祝福の体験を経験するということです。神がここにおられるということを体験します。

 荒れ野でいやしを経験することこそ、荒れ野に導かれる意味なのですね。

 本日のマナの記事の前にも苦い水に、木を投入するとその水が甘くなるということを経験しました。この神の御業を経験するために、苦い水が備えられているわけです。神がおっしゃられたことにそのまま従ってみると、不思議なことに、主の業を体験するということです。

 民は何度も何度も、不平不満を言います。しかし、主はそのたびにご自身の御業を見せてくださって神の業を経験することができるようにご配慮くださっています。指導者に対して民はいつも「こんな目に遭わせて、わたしたちを殺す気か!」と訴えます。葦の海を割ったときもそうですし、荒れ野を3日、水がなくなれば不平を言いました。しかし、主はそのたびごとに、モーセを通してご自身の御業がわかるようにしてくださいました。

 モーセ自身は、自分が「こうすべき」と考えていることを実現するということではなくて、神のご命令に従っていましたので、少しも揺れることなく、ただひたすらに主に従う道をとっていました。民が何を言おうがお構いなしで、主の業を行いました。しかし、主は民の叫びに応えて常に助けをお与えになられました。

 水を与え、食べ物をお与えになられる。それでも民は不平を言いました。

 主に従うか不平を言うか。

 

 歴代の、また現在の信仰者たちの姿や、自分自身の姿を見ていてもわかりますが、人間っていつもこうですね。主に従うか、不平を言うか。主に従う人は、ひたすら黙々と何が起こっても従っていきますし、文句を言っている人はどんな小さなことでも文句を言います。モーセの役割はこの民に対して、これが神の業であるということを鮮やかに言葉をもって指し示すことです。しかし、民はそれを無視します。モーセを無視するということは神様を無視するということでもありますし、神の業が見えないということをも意味するわけですね。

 神さまはご自身がなすべきことのすべてをなしてくださって、民を支えてくださっています。いついかなるときも変わらずです。最悪のときにもです。荒れ野ですです。しかし、それを無視して生きる。それが罪人。しかし、主はその罪人にご自身の業をなしつづけてくださっています。出エジプト記16:6〜8は決定的に重要なこと、私達の現実、信仰者の偽らざる姿を鮮明に示す言葉が記されています。

 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」

 エジプトの奴隷状態。ビールも飲めたらしいですし、パンも食べることができた。しかし、主は彼らのこの不平に応えて必要なものをくださいます。それはうずらとマナです。うずらはアフリカ大陸から気候の涼しい北の大地に向かって移動する時に、モーセたちが放浪の旅を続けていたシナイ半島に飛来していたようです。長旅で疲れていたうずらは捕獲の技術がないものでも簡単に捕獲できたようです。出エジプト記16:13。

 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。

 「これは一体何だろう」、アラム語でマン・フーと言うようですね。ですから、何だこれはというその言葉どおりに、マナはマナと名付けられたのです。これは蜜の入ったウェファースのような味がしたと記されています。しかし、エジプトで食べていたパンとは違うはずです。彼らが「これは何だろう」と思ったわけですから。薄くて壊れやすいのですから、食べごたえはパンに劣ったかもしれません。

 しかし、モーセはこのマナをパンと言いました!

 同じものを見ても、パンだ!と叫び喜ぶものもいれば、「こんなひどいもの食ってられん」と言うものもいるでしょう。モーセはこのマナに神の心を読み取っていたのです。だから、このウェファースのようなものを普段慣れ親しんで喜びと共にエジプトで食べていたパンと同等のものいやそれ以上のものとして彼は受け取っていたに違いありません。神がこれほど、不平不満をいう民を見捨てずに、憐れみを注ぎかけ、その怒りが降ってもおかしくないところに、彼らが食べて満足することができるほど、うずらとマナで満たしてくださっていたのですから。しかも、彼らは労働することなく、毎日必要なだけ得ることができました。

 ポイントは必要な分だけというところです。

 それを「おおっ!!、パンだ!」と喜べたのです。ここに信仰の力があります。神様からのメッセージと心はいつでもどこにでもあります。苦い水が甘くなったという記事で、木が水に投入されたということを知って、これはキリストの十字架の木材を指し示すのだと理解する人もいます。モーセが見ようとしていたように、神の恵みを与えられた出来事の中に十全に見ようとするからこそ、そういう理解になるのだと思って私は感動するのですが、そんな理解飛躍がすぎるだろうと言うひともいるかもしれません。

 しかし、主がマナとうずらによって不信仰に走りがちであった民に、力を与えようとされていることを受け止めてください。

 罪人を赦し、ご自身の力を付与するために主イエスが地上にこられたこと、この主のお心はいついかなるときも貫徹されています。荒れ野であろうが、現代であろうが。アーメン。