出エジプト記 17:1〜7 「命の水」

石井和典牧師

主はいつもイスラエル共同体と共におられました。エジプトの奴隷状態から脱出できたのはすべて主のお力でした。エジプトとイスラエルのパワーバランスからすれば、イスラエルが奴隷であり続けることは必然でしかありませんでした。しかし、主は彼らの助けを求める叫びを聞いてくださいました。彼らには契約が与えられていました。アブラハム契約です。

 彼らが約束の地にとどまり、子孫が繁栄して、祝福の基となるという約束です。エジプトに下り、エジプトでの生活を余儀なくされてという不遇の歴史をたどりました。しかし、そこから救い出される道は、神の言葉によって与えられました。

 彼らは叫び求めればよかったわけです。実際に主の言葉どおりに神の祝福の民。神の力を現し、神の栄光を生きる民となっていきました。主に向かって叫び求める。このことこそが大事なことです。

 今やすべての民が、主イエスの十字架の御業によってこのアブラハムの民となる祝福を得ました。信仰によって主の民として生きることができます。主の民として生きるのならば、主は「叫び声」に応えてくださいます。神様がモーセにくださった言葉を私達は何度も読み直し、味わう必要があります。出エジプト記6:5。

 わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。

 主はご自身の契約を思い起こして、その契約が確実に守られるようにしてくださいます。その「契約の言葉に基づいて」叫び求めるならば、必ず主はお応えくださるのだということがわかります。「約束の言葉に基づいて」神ご自身が御手を動かしてくださった。その結果として今も昔もイスラエルが存在し、イスラエルの歴史が保持されているということです。ということは、「神の言葉に基づいた」祝福の民とさせていただくということがあまりにも大きな恵みであるということに気づきます。

 信じるものたちの共同体にとって、もはや自分たちの認識のみにとどまるのではなくて、自分の思いを捨てて、ただひたすらに主におすがりするものに、主は聖書の言葉に基づいてお応えくださるのだということを経験することができるということです。神の言葉の真実さに徹底的に信頼を置き、すべてをかけて行く者たちは次々と主の御業を見ていくのです。

 モーセの共同体はモーセの信仰によって生かされて、彼らはこの共同体に働いてくださる主の御業を目の辺りにしていきました。エジプトへの10の不思議な災いを目撃しました。葦の海が割れるのを目の当たりにし、苦かった水が甘くなり、砂漠ではマナというウエハースのようなものをパンとして食べることができました。

 しかし、そこで彼らを邪魔したのは常に肉の欲求です。水が飲みたい、食べたい、これら肉体的な欲求は否応なしに人に迫り、人を動かすものです。

 しかし、これらの欲求をもって、どこに向かうのかということが大事です。

 この欲求を持って民はモーセやアロンや指導者に向かいました。その結果不平不満をぶつけることになりました。しかし、モーセはどうだったでしょうか。この必要への欲求を持って「主に向かいました。」17章の3節と4節を並べて見てください。

 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」

モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、

 「モーセに向かって」「モーセは主に」この違いに注目してください。どちらの方向にスタンスをとるのかということが決定的に重要であるということがわかります。

 誰に向かうのかで態度が変わります。主のお顔を拝するようにして歩んでいれば、どのような言葉になるでしょうか。謙遜な言葉になります。神に対して私が立っているということ。それはどうしても頭を下げなければならないようになり、低くなります。結果、主の御業に対する賛美へと導かれます。モーセが15章で主を賛美する言葉を残していることを思い出してください。

 しかし、民の言葉はどうでしょうか。民はモーセに向かって言いました。出エジプト記15:24。

 民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。

 そして、モーセはどうしたのかというと。15:25。

 モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。

 どちらにスタンスを取っているかで常に人の態度というのは変わるものです。いつでもどこでも確固たる自分を持っていたいと思いつつも、誰に向かっているかで態度というのは変わってしまうのです。しかし、モーセのスタンスを見ていると、いつでもどこでも彼の基本的な方向、また最も優先する方向、また人生全体の方向性が変わらないので、彼の態度も変わりません。常に何に向かっているかといえば。主に向かっているのだということがわかります。民に向かっているときでも確実に主が意識されています。

 彼は民が怒り狂うようにして向かってきているときも、態度を変えることはありませんでした。どうしてそんなことができたのかといえば。本日のところは特にモーセ自身がこのように言っている箇所なのです。17:4。

 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいですか。彼らは今にも、わたしを石で撃ち殺そうとしています。」と叫ぶと、主はモーセに言われた。

 「イスラエルの長老数名を伴い、民の前に進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」

 主に対して、自分のスタンスを取り、主との対話に立っているので、いかに民が怒り狂って迫ってこようとも、彼は主のお働きを信じて、主の挙動に集中していたのです。だから、殺されそうになってもそれでも落ち着きを得ることができました。

 何を信じ、何を恐れているのか、何に支配されているのか。それらはいついかなる時も外に出てくるのがわかります。

 客観的に見てみますと、「信仰とは隠せないもの」ですね。実際に本音で何を信じているのかが、表に出ています。神に聞いて、神がお語りくださったことを信じて歩むということが中心になっているのか。それとも自分の肉体的な欲求や感情やその時の気分が中心になっているのか。周りの人々の言葉が中心になっているのか。

 モーセはこの出エジプト記17章の場面では岩を打って水を出せと主に命じられていますが、民数記20章の別の場面においては、「打て」ではなくて「命じなさい」と主からご命令を受けています。それに従わなかったがゆえに約束の地に入ることができなくなりました。ある場面においては岩を打て、ある場面においては岩を打つのではなくて命じよとおっしゃられる。ですから、主に聞いて従うということが常に最優先にされていなければこの違いが小さく見えてしまうことに気付かされます。

 モーセはこのときは民が不平を言うものですから、主に聞くよりも自分の感情やまた自分がこれまでしてきたこと、一度岩を打って水を出したわけですから、その経験による自負心に基づいて、民に力を見せつけたのだろうと思います。

 しかし、それらは主のお命じに従うことではありませんでした。

 たかが岩、されど岩。新約聖書を読んでいますと、このイスラエルと共にあった岩というのは主イエスのことだったのだとの理解が与えられています(コリントの信徒への手紙10章)。いつでもどこでも、誰に対して行動しているのか、真に神に聞いているのか。目の前の人の背後に主がおられること。すべての事柄の背後に、見えないところからこそ、主は見ておられること。このことを信じることができれば、いつでもどこでも命の水が湧き出すことをも信じることができます。問われているのは、我々が主を信じて、主に聞いているかどうかということなのです。

 私達が向き合っているものは岩かもしれません。

 水源はいつもすぐそばにあるのかもしれません。私達が主に聞いて、スタンスを主に向ければそれが湧き出すのではないでしょうか。アーメン。