ローマの信徒への手紙6:22〜23 「永遠の命、キリスト」

石井和典牧師

 人は何かを主人として縛られて生きています。どんなに自分が自由だと主張する人も、お金や権力や生活や、家族や、誰かに縛られて、何かを主人として生きています。自分にとって最も重要だと考えるものに縛られています。時間と思いを何につぎ込んでいるのかを見れば何を一番大事にしているのかが見えてきます。

 罪というのはそこで方向性がずれていることです。まことの主人である神、創り主である神、救い主キリスト。ここに向かうのが本来の人の歩みです。この神に時間と思いを投入するのが私達の歩みです。しかし、そうではなくなってしまっているということが罪です。

 無作為にある一日のスケジュールを抜き出して来て、その時間配分を見て、「主に仕えているか」ということを見てみてください。そして、自分の心に聞いてみれば、誰を本当は主人としていたかが見えてきます。

 罪の奴隷であるか、義の奴隷であるか。どちらかです。ローマの信徒への手紙6:16。

 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るかどちらかなのです。

 生きるか死ぬかどちらかです。神に仕えるか、罪に仕えるか。どちらかしかありません。罪というのは、先程も言いましたが、神の方向からズレて、別のなにかにずれて、その奴隷となってしまっているということです。神に仕えるか、否か。神に仕えていなかったら罪の奴隷となっています。

 この洞察というのは非常に強烈なものだと思います。

 神に仕えているのならば、義となり、命となる。永遠の命につながっていく。そうでないのならば、死につながる。

 あらゆる瞬間が神に仕えるものとなったら、すべてが永遠の命につながっていくということです。

 神に仕えるという内実で、心根で、実態で、働いていたり、奉仕をしたり、生きていたら、その行動すべてが、永遠の命につながってしまうということです。

 クリスチャンの役割というのは非常に大きいです。永遠の命を生きて、永遠の命の源となっていく。聖なる生活を通して、そのようになります。聖なる生活というのは本日の箇所の少し前のローマの信徒への手紙6:19に出てきます。

 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。

 神の奴隷となって、義の道具として使っていたのではなくて、別の何かの支配下にあって、不法の道具としてこれを使ってしまっていた。そこから変化させられて、聖なる生活を送りなさいと勧められています。聖なるというのは分かたれたという意味です。神に仕えるという心根で生きることは、これまでの不法な歩みとは全く違います。それまでは多かれ少なかれ、自分勝手に、自分の思いの支配のもと歩んできました。しかし、主に仕えるということをもってその神以外の別のものの支配から逃れて、「聖なる」生活に入っていくのです。

 聖なる生活に入っていくのが難しかったのは、なぜかというと、「行いの法則」に縛られていたからです。自分が何かをして、その労働の対価として報酬をもらうというあり方です。だから、自分の行動いかんによって物事が決まってしまうといつも考えてきました。なので、神に自らを委ねるのではなくて、自分が行動して、自分が清くなって、自分が完全になって神のもとに行くというような発想なわけです。多くの人が、なんとか良い人間に、すこしでもマシな人間にという行いの法則に縛られてしまっているわけです。

 しかし、そのような行いの法則に縛られていては「正しいものは一人もいない」という現実に行き着きます。ユダヤ人もギリシア人もすべての民が神の前に罪人。旧約聖書を信奉していて、律法に従って生きようとしている人も、そうでない人もすべての者が神の前に正しいと言える人は一人もいない。それが結論であるということです。

 旧約聖書はこのように生きなさいということが記されていますが、それを実行しようとすればするほどに、それを実行できない自分に気づき、誰もそれを実行できないというところに行き着くというわけです。ですから、そこから、キリストを求めて、行いの法則、労働の対価のように、こちらが何かをささげて義しさを得るという次元ではなくて、恵みの法則に立たない限り人は救われないということなのです。

 それはそもそも、はじめの時から変わっていません。アブラハム、信仰の祖のときから変わっていない。信じるという信仰の法則によってしか救われないし、信仰によって義とされるのだということがローマの信徒への手紙4、5章で語られている内容となります。

 信仰からスタートして義とされ、聖なる生活の実を実らせていくのです。

 信仰によってスタート。その信仰というのはどのような信仰なのかというと、「アブラハムの信仰」です。唯一で全能なる神を信じる信仰です。それはローマ4:18以下に記されています。

 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。

 これを見るとわかるのですが、アブラハムは自分が持っている体力とか、環境とか、状況とかそういったものよりも神の約束、神のご性質に信頼して、神に従うことを選びました。すべて自分ではなくて、神に信頼したということです。自分の先入観や思いや行動。そういった持っているものに頼るのをやめて、神への信仰に立ったのです。

 どのように考えることもできました。もう百歳だから、もう生殖能力がないから、もう妻も、、、なんでも言えた。

 言おうと思えばいくらでも不可能だと言える状況を主はご準備されたのですね。

 わざわざそのような状況の中で「全能の神を信じるか」。神の言葉の確かさに立つか。ということを主は見ておられるのです。そして、信じたものは、信じた通りになるという祝福を受けます。アブラハムの子孫は70人でエジプトに下り、出エジプトの時には壮年男子の数で60万人程度、女性も子供も合わせると200万人ぐらいになるのではないかと推測されます。70人でエジプトに下りよく生き残ったと思うものですが、ヨセフが政治的な権力者になっていたということもあるでしょうが。それもありえないというか。ヨセフは兄弟に穴に落とされて殺されたも同然な扱いを受けたのですよ。

 そのはじめのお父さんは、子供が与えられないという親族の存亡の危機にあったのに。200万人です。そして、異邦人である私はアブラハムが自分の信仰の父であると思っています。何もないところから有を作り出すのが神様なのですね。ありえないことが起こってしまうのが神様の御業なのですね。

 神がどのようなお方かを信じることは、復活信仰ともつながっています。神が全能だから、死者を復活させることがおできになると信じるのです。できそうかできなさそうかではありません。それが起こりそうか起こらなさそうかではありません。神様のご性質がすべての根拠です。だから、アブラハムの信仰というのは復活信仰とつながるのです。ローマ8:23。

 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。

 と記されています。神を信じるということは、聖書に掲示されている、無から有を創造され、死んでいたものをよみがえらせ、復活させる、全能の力を信じるかというところにかかっています。アブラハムはイサクを神様にささげようとしましたが、ストップがかかり、イサクを自らの手で屠る必要はなくなりました。それがシオンの丘、現在のエルサレムの中心になっている場所、イスラム教の寺院が建っている、嘆きの壁の向こう側です。しかし、それこそアブラハムはイサクに何があろうとも復活させる力さえお持ちの方を信じて、主の全能さに信頼をしたのです。わたしたちにとっては、キリストの復活を信じる信仰から、その神への信仰へと入っていくことができる。アブラハムの信仰と復活信仰は重なるのです。

 アブラハムが信仰を与えられ、すべての国民の父となるということを信じてそのとおりになったように、神の言葉を信じて行くべき場所を信じている人、すなわち、復活の命、永遠の命を信じている人は、そこに行き着きます。

 アブラハムは信じて旅立ちました。信仰には行動がともないます。

 信じたとおりに人は行動します。信じて、十字架の血によって清められて、行くべき場所が見えるようになって、そこに行けるようにさせていただきましょう。アーメン。