マルコによる福音書9:7 「主に聞く」

石井和典牧師

 我々はこの世のことに目が暗くさせられているようです。弟子の姿を見れば、わかります。見るべき神の国、イエス様のお姿を見るというのではなくて、自分たちがどうすべきか、どうしたいかにとどまってしまっています。

 弟子たちはメシアが、救い主が、あのパックス・ロマーナ、ローマによる平和、軍事力による平和を実現するかのようなメシアとして君臨してくださるようにという視野からどうしても抜けきれません。

 だから、イエス様が「死ぬ」などということは考えられないし受け入れられないのです。しかし、主なる神様の心には「十字架」があるわけです。贖罪があるのです。しかし、ペトロにはそれが見えていませんでした。

 だから、イエス様からサタン呼ばわりされてしまいます。マルコによる福音書8:33。

 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 神と人間とを引き離すのがサタンです。サタンはペトロに働きかけて、人間の認識にとどまるように語りかけてくるわけです。神のご計画よりも、自分がどうしたいか、どうあって欲しいか。メシアたるお方は、「王として君臨していただかないと」ということです。

 しかし、主ははっきりと、「ご自身が排斥されて殺される」とおっしゃられていました。ペトロはそれを真っ向から否定しました。マルコ8:32。

 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

 何もわかっていないものが何かをわかっているかのように言葉を発し、確信をもってイエス様をいさめはじめます。見ているものが、主イエスとペトロと全然違うということがおわかりでしょうか。だから、主はこのようにおっしゃられたわけです。マルコ8:34。

 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 自分の思いを捨てきれていないのですペトロは。「こうだ」と思い込んでいる。それらを捨てなければなりません。そうしないと主イエスがお教えになられたいことは受け入れることはできません。だから自分の思いに死ぬ覚悟をもって、自分の十字架を負って、自分自身を十字架にかけて殺してしまうような自分自身の思いへの死をもって、主に従うのです。すると、神の国を体験する。神のご支配を目の当たりにする。神の力を体験するのです。

 イエス様はこのようにおっしゃられました。マルコ9:1。

 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 「神の国が力にあふれて現れた」と完了形に翻訳できる言葉が実際には使われています。すでに現れているのを見るものがいるということですね。その言葉どおり、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ山につれて登られた時に、彼らは、神の国をみることになります。それが本日共に読んでいる箇所です。

 使徒たちの確信というのはここにあるのがおわかりですか。すでに現れたものとして、すでに見たのです。だから、彼らは「今ここ」に主が働かれるのを疑うことはなかったし、将来の神の国の希望を持ち続けることができました。それは「今ここ」という感覚を持ちながら、歩んでいったからです。だから、そのとおり彼らの信仰のとおり主は彼らにお働きくださって、彼らは不思議な主の奇跡を「今ここで」目の当たりにしていきました。神の国が今ここに来ているという感覚を常に持ち続け、その感覚を持ち続ける根拠となる箇所が本日の箇所です。彼らは神の国を見ました。

 モーセとエリヤが語り合っています。その中心にイエス様がおられます。イエス様の服は真っ白に耀き変わりました。ギリシャ語で「メタモルフォーセー」したと記されています。この言葉は日本のアニメとかヒーローものの漫画に度々登場する言葉ですね。変身のときに。この世のものではない、神の国の姿を主イエスはその耀きをもってお見せくださったわけです。

 エリヤは預言者を象徴しますし、モーセは律法を代表します。主イエスはこの旧約の御言葉の成就であることを、モーセとエリヤとの対話を通してお見せくださったわけです。主イエスに聞いて、主イエスと共に歩めば、旧約聖書のすべての実現を見ることができる。

 すなわち、神の歴史の全てに、主イエスを通して触れて、そこに入っていくということを主は教えてくださっているのです。

 この姿というのは、天の国のリアリティ、世の視点からは一見見えないようなもの。本当は主イエスにおいてすべてが成就していくということが示されているわけです。

 ですから、ペトロのようにモーセがこの地上に住んで、エリヤに帰ってきてもらって、そして、主イエスという素晴らしい力ある御方がおられれば、解決!だから住む場所を準備しよう、というような発想をもつべきではなくて、主イエスによって神の国がすでに見えない次元で来ていることを確信し、その中を歩めということなわけです。

 主イエスを通して弟子たちが経験することというのは、必ずしも、光り輝いているといいましょうか、神の国の美しさを指し示すというものではなく、それらは隠れていて、後に信仰を通して理解されるわけですが。主イエスが通られる道は、非常に険しく、血だらけの道、傷だらけ、そして死の道であったわけです。しかし、そこには神の国の支配がすでに来ている。それを見ようとすれば、見られるのです。後の世代の我々は主イエスの十字架へのお姿の中に、キリストの愛と栄光をも見ている。だから、信仰を通してここに神の国の支配を見ることができるのです。

 しかし、ペトロには見えていない。なぜなら、自分に死んでいないからです。十字架を背負っていないからです。幸いなことに、主によってそのような未だ自分を捨てることができないペトロがしっかり招かれているということを記憶にとどめる必要があります。見るべきものを見せていただいて、後々に思い起こせば、自分がいかに主の前に不遜な歩みをしていたのか、理解できるように既になっている。自分の思い込みで暴走して、主に対して失礼な、主に対して的外れなことをしていたか後々気づくことができます。

 未だ、自分の考えに凝り固まっているこのペトロが見捨てられず、導かれたということが偉大なことです。

 気づいていなくても、悟っていなくても、見るべきもの神の国を見せていただいて、しかし、すでに見ているので、すでに来ているので、後々気づくのです。言うまでもありませんが、それが起こっている時に悟らせていただくということが最善でしょうが、ペトロのように悟れないのが人間です。

 しかし、実際には旧約の歴史も律法も預言もすべてが結実している、神であられるキリストに聞けばあらゆることがつながってきて、理解が与えられるのです。天の御声がこのようにおっしゃるとおりです。マルコ9:7。

 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

 聞けと言われても、また弟子たちは議論をすぐにはじめます。議論が悪いわけではありません。しかし、何より大事なのは聞くことです。聞くためには、自分を空っぽにする必要があります。自分を捨てよと命じられている通りです。自分を捨て、耳を開いて聞いて、信じる。すると神の御国を目の当たりにする。そのような流れがここに記されているのに、実際に弟子たちがしているのは、自分の考えに固まって、耳を開いているようで開いておらず、信じない。だから主はおしかりの言葉を発せられます。マルコ9:19。

 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 ペトロたちの姿というのは、わたしたちの姿です。聞いているけれども信じない、信じないから神の国に期待しない、神の支配に期待しない。だから、議論ばかりをかさねているけれども実際には力を体験しないのです。しかし、主はそのような共同体のすぐ近くにおられて、おしかりの言葉を発してくださって、自分を捨てて、耳を開いて、信仰に立って、神の国を見るようにと仕向けてくださっています。

 主は継続的に、不信仰なもののそばにおられて、御言葉を発し続けてくださいます。その主をペトロの姿から学んでください。

 つい昨日、わたしは島村礼子姉妹のことを思い起こしました。姉妹の愛唱聖句はイザヤ書30:15です。

 まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。

 黙想し、主に聞くことを第一にするべきことを悟らされる言葉ですが。5年前にすでに私はこの御言葉から語りかけを受けていました。しかし、やっと、この私に主が聞けと言っておられると強く認識するに至ったのです。5年です。

 主は不信仰なものたちに継続的に語りかけ続けられて、ついに信じるに至らせ、神の国を見させてくださり、聖書の言葉を何度もリフレインして口ずさむようにして、力をつけて送りだしてくださいます。弟子たちのように。アーメン。