コリントの信徒への手紙 5:7—8「過越の祝い」

石井和典牧師

 パンとパン種の例えというのが、聖書ではよく用いられます。僅かなパン種がパン全体を膨らませ全体を左右するということです。このパン種は「神の国」に例えられる場合もあります。しかし、逆に罪に例えられる場合もあります。マタイ福音書のイエス様の言葉をお聞きください。マタイ13:31〜33です。

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 特にからし種は小さなゴミ粒のようにさえ見える小さな種ですが、そのような小さななものが大きく成長して、膨らんで全体に影響を与えるということをお教えになられました。

 天の国を受け入れるということはそういうことだと。

 天の国というのは、バシレイア・トン・ウーラノーンというギリシャ語でありまして、これは直訳すると「天の王国」という意味です。国と約されるバシレイアは、「王の支配」という意味でもあります。マタイ福音書で語られる天の国というのは他の福音書で使われる「神の国」という言葉と同じ意味です。神様が王としてご支配なされるということです。

 神様が王としてご支配なされるその力が入ってきますと。人がそれを受け入れますと、それがどんどん広がっていって大きな成長を見せるということです。このヤハウェなる全能の父なる神への信仰を受け入れた人々は、主のご支配を体験し、その支配の力が広まっていっていることを実感していきます。

 逆にパン種が悪いものとして描かれる場合があります。パン種ですが、酵母ですね。聖書には酵母を抜いたパンを食べる除酵祭というものを行いなさいという律法が出エジプト記に記されています。出エジプト記12:17です。

 あなたたちは除酵祭を守らねばならない。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして守らねばならない。

 出エジプトを覚えて、ファラオのもとから出ていく時に、酵母を入れてパンを膨らましている時間もなかったのです。このように記されています。出エジプト記12:39。

 彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである。

 酵母が入っていないというのは、人間の思いとか考えとかが差し挟むことができないということを意味します。神様のタイミングで、神様の方法で、神様の御業が起こった。その主の御業に自分の思いやタイミングそういったものを差し挟むことなく、酵母を入れないパンを焼いて必死に従っていったということ。これがパン種を入れない、すなわち罪の種を挟まないということです。混じりけなく、ただ従うという一念でということです。

 罪というのは何かというのがわかります。神様が解放の御業をはじめてくださるのに、いやいやまだ待ってください。ちゃんと全部準備できてからでお願いします。え、このタイミングですか、わたしは嫌です。道中食料がちゃんと整っていないと困ります。。。パンが酵母によってうまく発酵していないと出ていくことなどできません。というような形にですね。神様がご自分の御業を起こしてくださっているのに、そこに人の思いを挟んですべて台無しにするということです。

 王として私達のところにお越しくださって、主がご自身のご支配をなしてくださる。そのような主のお働きに喜んで従う。神の国を受け入れるものは、神の国はどんどん広がって大きくなり全体に広がります。

 しかし、そこに何か別のものを挟んでいってパン種が、不純な思いが入っていくとそちらのほうが大きくなって大変なことになるということです。

 そして、このコリントの信徒への手紙一5章においては、神の支配ではなくて別の思いが心に入ってきてしまった結果どうなってしまったのかという痛々しい具体例が記されています。それはコリントの信徒への手紙一5:1です。

 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。

 息子が自分の母と性的な関係を結んで、それがそのままにされて放置されている。すなわち、神様がくださった夫婦の関係性や共同体の秩序が崩壊し、その関係性が崩れて、転倒した状態になっている。

 神のご支配を受け入れる受け入れない、そこに別の何かを挟んでしまいますと、人間の好き放題な放縦に至り、共同体の関係性が破壊されていってしまうということなのです。

 これは十戒で主がお教えくださったことに重なります。

 神様を愛するということが第一の戒めから第四の戒めまで記されていまして、その後第五の戒めから第十の戒めまでが、人を愛するということに関する内容となります。神を愛するということ、神にお従いし、神にその主導権を委ね、神にお従いするというこのところから落ちますと、隣人との関係性にも暗雲がたちこめてくるという内容です。父母を敬わなかったり、殺したり、姦淫したり、盗んだり、偽証したり、貪欲に落ち込んで他人のものをほしがったりです。

 どうしてそんなことが起こってしまうのかというと、罪のパン種が入り込んでいて、神の国の支配に生きるのではなくて、自分の思いの支配の中を生きるように方向性が誤ってしまっている。そのところが神との関係性が問題であるということがわかっているのに、判断力失って戒め合うことができないでいる。

 そして、パウロはこの問題を指摘するだけじゃなく、その問題に対処できるように、どのような思いを内側に持つ必要があるのかという解決策にいたります。それは6章の12節以下で語られて行く内容です。どんな内容かはじめに言いますと。「自分が神の聖霊が宿る神殿であることを知れ」ということです。そのとおり生きよということです。神のものなのだ。神の神殿なのだ。だから、その体をもって神の栄光を現せということです。Ⅰコリ6:15〜20。

 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。・・・知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 神様の神殿、神のもの。だから、主に対して混じりけのない心をおささげしなさい。そこに何かがまじり込んでくると大変な転倒が起こってしまう。あなたがたはキリストの血潮によって買い取られ、解放させられた。すべての支配から自由になり、罪から解放されて、自由を得た。その自由を自分の欲望を満足させるために使うのではなくて、自らが神の神殿であるという自覚にたって、キリストがご臨在くださるのですから。キリストに似た、キリストがお喜びくださる。キリストのものとして行動しなさい。

 コリントの信徒への手紙Ⅰ6:9以下。

 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

 かつて、神の前に自分が神の神殿であるという自覚がなくて、ここに記されているようなことを行っていたものがいたのです。しかし、その者たちが神の宮として選び出されて導かれる、キリストが過越の小羊として屠られて解き放たれて、まっさらになって、混じりけの無い練り粉とさせれて、真っ白くされた。その真っ白くされた。ところに自分の思いを挟み込むのではなくて、、、やっぱりパンを膨らませないと、食べ物が全部準備されていないと、自分たちの生活が確保されていないと、いやちょっとまってください、時間的にもっと準備が必要です。というような、自分の思いを練り込むすきもひまもなく、ただ、まっさらなこころをもって、急いで従う。主はそのようなものたちをご自分の御身体の一部として扱ってくださるのです。

 パン種を入れない祭りのように、急いで主に従順をささげて従いたいと思います。主イエスは自分の力では、罪の力から解放されえなかったもの解放してまっさらにしてくださっているのです。自分が主の血によって神殿とされたという自覚にたちましょう。アーメン。