ヨシュア記 3:14〜17 「川が立つ」

石井和典牧師

 モーセの後を引き継いだヨシュアが約束の地に入っていくために、「荒野の40年」という放浪期間がありました。放浪ということばがよく使われます。最初に約束の地に入るチャンスはエジプトから2〜3年後のことでした。その分かれ道となる場所が、カデシュ・バルネアという場所です。このカデシュ・バルネアから約束の地に入るために歩く距離は80キロでした。約束の地の南端であるべエル・シェバ、3日で着きます。

 しかし、このカデシュ・バルネアで人々は尻込みしました。約束の地に住んでいる民が城壁を築いていたからです。城壁を築くことができるということは、国力の充実を物語ります。自分たちよりも力があるということです。決して勝利をおさめることができないのではないかという差が見えました。

 そんな人々と戦って約束の地に入るくらいならば、「エジプトに帰った方がまし」と騒ぎ出します。本日読んでいます、ヨシュア記と申命記は並んでいます。申命記の1章を見ていただければ民がどのように尻込みしたのかがわかります。

 しかし、民は怖気づいたのですが、神様は約束言葉をくださっていました。申命記1:29以下。

 うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。

 主は民が戦うべき戦いを戦ってくださる。それはエジプトのときと同じであると。エジプトを抜け出したとき、決して勝ち得ない戦いに勝利することができた。ファラオとイスラエルというのは絶対的な力の差がありました。イスラエルではどうにも抜け出ることができないような、絶対的抑圧、絶対的支配。しかし、主はご自身のおこころのゆえに、この民を解放してくださいました。

 いつでも変わらず。主の戦いであるのならば、主が戦ってくださるのです。だから、その主に信頼し、主のことばそのものに従ったら良かったのです。

 しかし、民は従いません。

 それが3日の距離を、40年の荒野の放浪にしました。しかし、そこでもなお神様はモーセを通して導きを与えて、モーセを通して律法を与えて、食べ物を与え、飲み物を与え、必要なものを整えてくださっていました。うずらの大群がシナイ半島で羽を休めるとき、そこに遭遇してイスラエルの民は鶏肉にあずかることもできたわけですね。

 すべて、主のおこころにもとずいた幸いでありました。

 なぜなら、主はこの民を祝福するとお決めになられていました。

 アブラハム、イサク、ヤコブ、その末裔を祝福の源とすると。その決意は決して変わりませんでした。

 出エジプト記 2:23〜24

 それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。

 アブラハム、イサク、ヤコブとの契約というのは、一言で言えば祝福の約束の言葉です。祝福の源とするという決意のもと、モーセからヨシュアへとリーダーが引き継がれ、ヨシュアの心には神の救いの御心、出エジプトの出来事が、かつてのことではなくて、今ここで起こることとして、生き生きとヨシュアの心をかけめぐっていました。

 主はモーセの後継者ヨシュアにこのようにお声をおかけくださっていました。ヨシュア記1:2〜6。

 わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所すべてをあなたたちに与える。…わたしはモーセと共にいたように、あなたたちと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。

 「あなたを見放すことも、見捨てることもない。」

 この言葉を私達は刻み続けるべきです。彼らはシナイ山で金の子牛をつくってしまいました。全能の神ではなくて、自分たちにわかりやすい力の象徴をつくりました。主は民を滅ぼしてもよかった。しかし、モーセのとりなしに応えて、そしてご自身が語られた民への憐れみを示されました。もう何度滅ぼされても、何度見捨てられても仕方がない状況を通り抜けてきました。

 それでも主は民を見捨てなかった。

 ただひたすらに主のご性質にすがりついて、主のご愛にすがりついて、この主の思いに生きる。今も昔も、これからも変わりません。

 本日朗読されたところは、まさに約束の地にヨルダン川を越えて入っていくところです。彼らがかつて恐れおののいた場所。アナク人、すなわち巨人族の末裔と思い込んでいた部族が闊歩しているのではないかと、怖気づいた場所。それが約束の地、カナンです。

 恐れの場所、それが彼らにとっての約束の地。

 しかし、そこにあるのは、恐ろしい敵ではなく、主の約束の言葉と、主が起こしてくださる驚くべき御業でした。川を渡ったら恐ろしい敵が襲ってくるのではなくて、逆に、その地の民は「イスラエルに恐れをなして」逃げていきました。ヨシュア記5:1。

 ヨルダン川の西側にいるアモリ人の王たちと、沿岸地方にいるカナン人の王たちは皆、主がイスラエルの人々のためにヨルダン川の水を涸らして、彼らを渡らせたと聞いて、心が挫け、もはやイスラエルの人々に立ち向かおうとする者はいなかった。

 なぜ恐れをなして逃げ去ったのですか。それは「川が立った」からです。ヨシュアによってこのような預言が与えられていました。ヨシュア記3:13。

 全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。

 契約の箱というのは神のご臨在を現します。その上にケルビムが二体安置されて、そのケルビムの間に全能の父なる神のご臨在がある。契約の箱の中にはシナイ山でいただいた石板が入っている。神がここにおられる。神がここに目を注いでくださる。そして、ヨシュアという主に従うリーダーによって主からこのようにせよとの預言をいただいている。民がその言葉に従って見ると、驚くべきことに、大自然さえも、ヨルダン川さえもその主のご臨在に従うようにして、道をあけるのです。

 今週の水曜日の祈祷会において、詩篇18篇を読みました。ダビデの全生涯が振り返らている詩を読みながら、彼が信じていたことは何かということを確認しました。「主のご臨在があるならば、物事が動く」ということです。主のご臨在は、地震、噴火、雷、雹と火の雨と表現されます。そして、海が割れる。そのかつてイスラエルに起こった出来事をダビデは、心に描きつつ、主のご臨在を思っていた。だから、絶対的権力者であるサウルの手が伸びてきてダビデを殺そうとしても、それでも彼は諦めることがなかったのだと確認しました。

 主のご臨在があるのならば、主に従うようにして皆が道をあけるのです。川が立ちあがります。「決して動かないと思っていたものが、動きはじめる」ということです。

 今回のコロナ禍で、皆様も驚くべき社会の変化に翻弄されていると思います。動かないと思っていたものが動く。そんな出来事を体験しています。

 まして全能の主なる神のご臨在があるのならば、川が立ちあがってのく。

 

 ヨルダン川の底が見えて、渡っている時に、川の底の石を拾ってイスラエルの民は記念碑を造ります。ヨシュア記3、4、5章で同じ話が何度も繰り返されます。かつて出エジプトの時に起こったあのモーセの脱出。葦の海を主は割ってくださったではないか。その後我々は堕落した、我々は金の子牛を造ってしまった。主の言葉を信じ切ることができずに、恐れおののいて約束の地に入るのを躊躇した。しかし、主は我らを見捨てることはなさらなかった。

 「あなたを見放すことも、見捨てることもない。」

 これは想像ですが、ヨルダン川を渡りきったのち、ヨシュアはこの出来事に感動し、主の言葉を何度も唱えながら、大粒の涙を流したのではないか。

「あなたを見放すことも、見捨てることもない。」

 約束の地に入れなかったモーセの無念を思いながら。だから、何度もここに同じ記事が記されているのではないかと想像します。ヨルダン川の川底の石で記念碑を立てた場所は、「ギルガル」と記されています。

 ギルガルという言葉の意味を記憶してください。ヨシュア記5:9。

 主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた。」そのために、その場所の名はギルガルと呼ばれ、今日に至っている。

 恥のすべてを取り除いてくださる。

 神によって清められる。神によって癒やされる。イエス様の血潮によって。ヨルダン川を渡りきって、恥がすべて取り除かれる。主によって、イエスの血潮によって恥が、罪が取り除かれる。そのことを記念し続ける。それが教会です。

 安心してください。イエス様のもとに来れば、皆恥が取り除かれます。その証人がここにおられる皆様です。アーメン。